六月十三日 違いがあるから感謝! (二〇一二年六月 ひとしずく八三三)
一昨日、古くからの知り合いの子供たちが、演劇をするということで、友人たちと見に行ってきました。プロの劇団の人たちと混じって子供たち、いや今では子供たちとは言えない若者達がとても素晴らしい演技を見せてくれました。昔から知っている子供たちなので、演劇を見ながら、「あー、あの小さかった子供たちがこんなに成長したんだ」とただ感動して見ていました。
その演劇の出演者は、ダウン症の子供たちや身障者の人も一緒に参加で、中には車椅子で出演された方もおり、また大人もいれば小さな子供もいました。
劇の内容も素晴らしかったですが、私が一番感銘を受けたのは、そのように、いろいろな世代や、体が不自由な人から健常者の人たちが、皆、心を合わせて一緒に一つのメッセージを造り出しているという事でした。
人は皆一人では生きて行けないように造られています。皆一人一人ユニークで、愛とユーモアと強さと弱さと、こだわりと、夢を持っているのです。その素晴らしさは、たった一人でいたら、とても発見できません。お互いがいて、皆それぞれ違い、そしてその違いを感謝するから、素晴らしい奇跡が起るのだと思います。
それは全知全能の神様の知恵によるもので、そこに愛や譲り合いの心が芽生えるようにと、自分とは異なる人、別な風に考え感じる人をそばに置かれたのでしょう。
そんな様々な人たちの息が、一つの物語を描くために、溶け合っているように感じました。そして、聖書の次の言葉を思い出しました。
実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。
もし足が、わたしは手ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。また、もし耳が、わたしは目ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。
もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。もし、すべてのものが一つの肢体なら、どこにからだがあるのか。
ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである。目は手にむかって、「おまえはいらない」とは言えず、また頭は足にむかって、「おまえはいらない」とも言えない。
そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。麗しくない部分はいっそう麗しくするが、麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。
それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。
もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。(第一コリント十二章十四~二七節)
私たちは皆、イエス様の体です。お互い一つに結び合わさることにより、神様が自分に果たすようにと与えてくださった任務が明確になり、体全体にうまく貢献できるようになるのです。目は口になろうとしなくてもよく、手は足になろうとしなくてよいのです。
それぞれが、神様から頂いている賜物を輝かすのを、助け合い支え合うように、神様は意図して私たちを創ってくださったのです。
互いに違うからこそ、互いが必要なのです。
「私とは違うあなたがいてくれること、感謝しています。」