イエス様に触れる事によって

六月十一日 イエス様に触れる事によって (二〇一四年 六月ひとしずく一五七四)

  律法学者たちはイエス様を迫害し、殺そうと狙っていました。彼らは、もう初めから心が決まっていて、イエス様に直接会って彼を理解しようという気持ちは無かったのです。

  彼らの中のひとりで、以前にイエスに会いにきたことのあるニコデモが、彼らに言った、「わたしたちの律法によれば、まずその人の言い分を聞き、その人のしたことを知った上でなければ、さばくことをしないのではないか」。

彼ら(パリサイ人ら)は答えて言った、「あなたもガリラヤ出なのか。よく調べてみなさい、ガリラヤからは預言者が出るもの ではないことが、わかるだろう」。(ヨハネ七章五〇~五二節)

 ニコデモは、以前にイエスに会いにきていました。彼は、人の目を避けて、夜やってきました。(ヨハネ三章一~十五節)

パリサイ人のひとりで、その名をニコデモというユダヤ人の指導者があった。この人が夜イエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。(ヨハネ三章一、二節)

彼は、イエス様に対して好意を抱いているとか、イエス様を信じてると人から思われるのを避けていたのです。ニコデモは地位と評判を持っている人でしたから、それらを損なうようなことは、もちろんしたくはなかったことでしょう。しかし彼は、イエス様に対して、他の人たちのように偏見と先入観で凝り固まった考えを持ってはいませんでした。

彼は、イエス様が、もし神からつかわされていなかったら、こんな力あるわざはできないであろうと思ったのです。それで、行って、会って話してみようと思ったのです。

彼は、ただじっとしていることはできませんでした。自分の仲間から非難されるかもしれない危険を冒しても、イエス様に会いたい と思ったのです。

 ニコデモは、その真理に対する愛によって、報いられました。彼は真実を知りたいと思ったので、その求めに主は応えられたので す。

 イエス様は、彼に律法学者やパリサイ人、祭司らが、自分たちの知識や理解力では、得ることのできないこと、しかも最も大切な真理、どのようにして神の国に入るかをニコデモに教えたのです。

 この時、ニコデモの理解力は、イエス様の語られたことを全て理解するには、達していませんでしたが、少なくとも彼は、イエス様が真実を語っていることを感じ取ることはできたことでしょう。

 そこで、ニコデモは、自分と同じパリサイ人や、祭司たちは、早まって間違ったさばきをイエスに対してすべきではないと思い、彼らに、イエス様に会って、直接話を聞いてから判断すべきだと主張したけれども、彼らの心はもうすでに定まっていました。彼らの律法の知識は、イエスが来るべき方であるのを悟ることの助けにはなりませんでした。かえって自分達の知識によって奢り高ぶり、真実を知るための邪魔になっていたのです。(ヨハネ九章四一節)

彼らに真理が見えなかったのは、聖書の知識がなかったからではなく、神との関係が築かれていなかったからだと思います。

 彼らは聖書を読むことや、律法を守ることに対して熱心でした。しかし、ただ神や聖書の言葉を知識として知っているというだけでは、主との関係を築いていくことはできません。ちょうど人との関係を築いていくのに、何度も会い、会話を交わし、時間を共に過ごす必要があるのと同じように、主との関係も、聖書を自分に語られている神の御言葉として深く読み、祈り、主との交わりの時を持たねばならないのです。それは神への愛という動機が必要です。

そしてイエス様ご自身に触れることによって、神とのつながりが成長していくのです。

イエス様と交わるため、彼の御声を聞くための時間と機会を、何が障害となり、阻止してしまっているでしょうか? 怠慢、世のものに捉われていることから来る忙しさ、真理への渇望の欠如、自己満足、めんどうと思う事…?

犠牲を払ってでも、それらを乗り越えてイエス様との時間を確保するだけ、主イエスは価値ある方でしょうか? わたしは、そのとおりだと思います。

「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまた わたしと食を共にするであろう。」(黙示録三章二〇節) 

彼らが滅びるのは、自分を救う真理を愛をもって受け入れなかったからです。それで神は、惑わす力を送られ、彼らは偽りを信じるようになります。 (第二テサロニケ二章十節後半、十一節 新改訳Ⅳ)

<人が真理を拒むと、自分にとって都合のよい言い訳となる理論を探し求めるものです。神は、その人の救いとなる真理を提供したのに、他のものを求める者に、その求めるものを与えられます。そして惑わしのうちに一時的な自己満足に浸ることになりますが、その結末は滅びです。イエス・キリストは、「わたしは道であり、真理であり、命である。誰でもわたしによらないでは父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ十四章六節)と言われました。真理は、永遠の命、父と御子との交わり、わき出る平安を与えてくれます。真理であるイエス・キリストを心に迎え入れてその祝福に与って下さい。まだ、次のような祈りをしておられないなら、今なさって下さい。「イエス様、あなたが私の罪の赦しのために死んで下さったことを感謝します。今わたしの心と人生をあなたに開きますので、どうかお入り下さい。あなたを私の主、救い主としてわたしの心と人生にお招きします。」 もしあなたが心からこのようなお祈りをイエス様に対してなさったのなら、主はあなたの祈りを聞かれました。>

 

他の投稿もチェック

義に飢え渇く者

ひとしずく1559-義に飢え渇く者 (2014年配信) 最近、Dさんに十何年かぶりに再会しました。今、彼は単身赴任 で、福島の相馬で働いています。以前、私たちの聖書クラスに来ていましたが、彼が九州に引っ越しして以来、会う機会はありませんでした。 しかし、彼が東北に来て、先月から月に 一回、私が那須にいる時に、聖書を一緒に学ぶために、彼は公休日前の日に一泊の泊りがけで相馬から那須にやってきます。仕事が終わってか ら車で来るので、那須に到着するのが夜の9時...

誰 の声に従うのか?

ひとしずく1557-誰 の声に従うのか? ある人が、クリスチャンではない 友人たちに自分の悩みを相談し、その友人たちの言う通りに行動した結果、その結果が結局自分の望んだこととは反対のことが起ってしまった ことを非常に悔やんでいました。自分はそうは思っていなかったのに、友人たち皆が口をそろえて同じ事を言うので、自分もいつしか彼らと同 じ気持ちになってしまっていたということでした。今思えば、その決断は主の見方、やり方ではないし、自分の本心でもなかったと、寂しそう に言っていま した。 私たちはよく、神を恐れるよりも...

聖書の中の偉人たち

ひとしずく1556-聖書の中の偉人たち  有名な人の生涯を見て、その数々の偉業に、凄いなという印象と圧倒される思いを抱く事があります。しかし、そこからいくらか学べることはあるものの、励ましを受けるより、自分にはそんなこと、とてもできそうにないとがっかりしてしまう場合があります。  反対に、偉大な人たちの失敗や罪を見る時、こんな偉大な人でも罪深いところがあり、それにも拘わらず、神様は彼らを赦し大いに用いられたのだとわかると、とても励まされるのではないでしょうか。もしかしたら、自分にも希望があるかもしれない、と。...