六月九日 主よ、いつまでなのですか (二〇一四年6月 ひとしずく一五七一)
詩篇は、悩みと危機と闇の中にあっての叫びの祈りに満ちています。私は、どうして詩篇にこんなにも悶え苦しみ、苦悩の中で神に訴える声がいっぱいなのかと考えさせられたことがあります。
詩篇の朗読CDを作成しようとした時も、詩篇の中に、「どうしてわたしを見捨てられたのですか」「いつまでさばきをなさらないのですか」といった調子の苦難の叫びの言葉がたくさん記されているので、もっと心穏やかになる平安に満ちた言葉で満ちていたら、瞑想に使えるのになぁ、と思ったりもしました。
主よ、いつまでなのですか。とこしえにわたしをお忘れになるのですか。いつまで、み顔をわたしに隠されるのですか。いつまで、わたしは魂に痛みを負い、ひねもす心に悲しみをいだかなければならないのですか。いつまで敵はわたしの上にあがめられるのですか。
わが神、主よ、みそなわして、わたしに答え、わたしの目を明らかにしてください。さもないと、わたしは死の眠りに陥り、わたしの敵は「わたしは敵に勝った」と言い、わたしのあだは、わたしの動かされることによって喜ぶでしょう。(詩篇13:1-4)
しかし、考えてみれば、それらの言葉こそ、大きな試練の中での心からの叫びの祈りであり、私たちがもっと自分たちの遭遇する試練の中で祈るべき言葉であるのだと思います。
ところが私たちの傾向は、試練の中で神を呼び求めることをするのではなく、失望の中で自分の運命に悲嘆し、自分の力で何とかしようともがいてしまうのではないでしょうか。
平穏時に信仰していた神は、そうした試練の時には、さっさと捨て去られ、何の力にも助けにもなっていないのです。
自分でもどうする事もできないような、そんな試練の時にこそ、私たちは助けの手を必要とし、取り巻く闇の壁を光の剣で裂いてくれる方を必要としているというのに。
なぜ私たちは、試練の最中で神に「神よ、どうしてですか?」と迫れないのでしょう?
試練の時は、信仰が試される時です。
ちょうど、「薄い石地に蒔かれた種が芽を出しても、根がないので焼けてまった」ように、私たちの信仰は、試練に脅かされると、どこかにいってしまうことがあるのです。
ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 (マタイ十三章五、六節)
うまく行っている時には信じていた神も、試練の時には何の役にも立たず、ただの重荷となって捨ててしまうものであるなら、始めからその信仰は、本当にイエス様につながっているものではなかったのでしょう。
私たちは、波が来た時、神を疑い、恐れに駆られ、無神論者と同じ行動を取るのでしょうか?信仰を失い、あるいは神を捨てて肉の力に頼るのでしょうか?
ちょうど、昨日の朝のデボーションをしていた時、ある姉妹がヒットラーの時代のドイツで殉教したボンヘッファー牧師は、詩篇の言葉の祈りは、イエス様しか祈れない祈りであると書いていたと教えてくれました。
私たちを本当に神に近づけさせてくれるのは、神の御霊であり、私たちの内にあって祈るイエス様の御霊です。
もし、そうであるなら、私たちはイエス様と親密な関係を築く事にもう少し熱心になるべきではないでしょうか。そうするなら、私たちの日々の歩みは、イエス様の思いと一致して、イエス様のようになります。そして試練に遭う時、イエス様が私たちの中にあって祈られるのです。
主こそ、試練の時の避けどころであり、力であり、いと近き助けであることを忘れずにいましょう。
御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあら わせない 切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。(ローマ八章二六節)