神の声か、悪魔の声か

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2023年6月7日
六月七日 神の声か、悪魔の声か (二〇一四 ひとしずく一五六九)

 ある友人から、何が神様からの声で、何が悪魔からの声なのか、どうやって区別がつくのか?という質問を尋ねられました。

  確かに実際は、アニメなどであるように、悪魔の声は必ずしも恐ろしい地獄の響きをもって聞こえてくるというわけではありあせん。悪魔は 「欺く者」「狡猾な者」「惑わす者」なので、光の天使を装い、あらゆる手段を尽くして私たちを騙そうとしてくるのです。したがって、悪魔が私たちを誘惑して、神様の御心に背かせようとする時は、聞こえのいい、そして自分に都合が良いもののように聞こえるもの、あるいは常識や伝統、正当論に思えるものさえも使って、惑わそうとすることでしょう。

  神様の恵みが無ければ、私たちはちょろいカモだと思です。

  悪魔は、自分がすでにどれだけ世界を自分の支配下に置いているかについて次のように語っていることが聖書に書かれています。

  それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。(ルカ四章五~七節)

  悪魔が「すべての国々の権威と栄華」と言っていることに注意しましょう。全ての国々の権威と栄華が悪魔の手にあり、それを与えようと言っているのです。もし、あなたがそう言われたらどうしますか?全ての国々の権威と栄華が手に入るなら、それは世界を全て手にしたも同然と思えるかもしれません。それが欲しいと思っている人は実際この世に大勢いることでしょう。

  しかし、たとえ悪魔がこの世の権威と栄華を手中に収めているとしても、本当は全てを手にしているわけではないのです。何かが欠けています。それは何でしょう?それは、人の心を勝ち取ることです。悪魔は、全ての人の心からの崇拝を求めているのです。

  イエス様は、人が神への真の礼拝に立ち返ることができるようにこの世に使わされていました。ですから、イエスにそうさせまいとして、自分の持っている全てをイエスに差し出して、自分を崇拝してひざまずくように悪魔は求めたのです。そうすれば、イエスを信じ従う者たちも、悪魔を崇拝することになるからです。

  権威や栄華を手にした権力の下にあっても、人がその心の中で、真の神を礼拝し、悪魔に対して屈してないなら、悪魔がそれで満足できることはないでしょう。

  イエスは、そんな悪魔の策略を暴露し、私たちが彼の惑わしに屈しないようにと言われています。

たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができよ うか。(マタイ十六章二六節)

  悲しいことに、人は、権威や栄華に弱いです。お金や地位を得るために、自分の魂を引き換えにしてしまいやすいのです。また、権威を恐れます。時にはその権威によって命さえ脅かされることもあります。そういった権力に対してイエス様は次のように語られています。

  からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。(マタイ十章二八節)

  私たちが神の声なのか悪魔の声なのか見分けがつかないのは、まずは御言葉に弱いせいかもしれません。つまり初心者で、神が何を望んでおられるのかまだよく分からない場合です。しかし、何年も前からクリスチャンで聖書は読んでよく知っているのに、神の声が聞き分けられないという場合、それは神に従う決意をしていないから、あるいはその決意から遠のいてしまっているせいなのだと思います。いつでも神に従うというこの立場に立つ時、あらゆることはもっとクリアになってくると思います。

  しかし、私たちがこの世的な考え方になり、この世のものに心を惹かれているなら、神の声が聞けなくなるどころか、神の言葉を聞きたくさえなくなってしまうのです。

  私たちは、悪魔が人の作り上げた社会の中に、どれだけ権威に対する恐れ、栄華に対する誘惑を使って、人を惑わそうとしているかということをまず認識する必要があると思います。悪魔は三つ又の槍を手にして、お尻に黒いしっぽを持って私たちの前に現れるようなことはまずないことを覚えていなければなりません。自分は神を信じており、神の御言葉もよく知っているつもりでも、いつでも神に従う決意でいないなら、悪魔はいとも簡単に光の天使を装い、私たちを惑わすのです。

  神の声と悪魔の声を見分けるには、まず自分の心を吟味する必要があるでしょう。

  神を愛するのか、自分を愛するのか、神の御心を行うのか、自分のしたいことをするのか。私たちは毎日、毎時、この決断の上に立たされているのです。 そして、この決断次第で、聞こえてくる声も変わってくるのだと思います。 神を第一に愛し、神の御言葉を思い、そして、どんなことであっても神に従い、自分を捧げる覚悟でいるなら、小さく細い声が大きく響いてくるでしょう。

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