六月五日 信者同士の集まり (二〇一四 ひとしずく一五六四)
愛と善行とを励むように互に努め、ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。(ヘブル十章二四、二五節)
信仰を共にする人たちと集まり、交わりを持つことは大切です。
パウロは、善を行うにあたって、特に信仰の仲間に対してそれを行うことを励ましています。また、信仰の仲間は、それぞれがキリストの肢体の一部であるとも聖書は言っています。
「わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。」(ガラテヤ六章九節)とあります。
「わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。」(ローマ十二章五節)
信者たちというのは、特別なつながりを頂いているということがわかります。そして、私たちがイエス様の肢体であるとすれば、それぞれ別の働きをしていても、皆同じ一つの頭につながっているのですから、ビジョンは一つです。また私たちを通して、神が本当に成さろうとしていることも一つです。主は私たちを使って、御心を成そうとしておられるのです。
これは非常に興味深いことであると思いました。私たちは、主の奉仕のために色々なところに使わされていますが、多くの場合、接触を持つのがキリストの仲間、つまり主にある兄弟や姉妹ではないのです。私たちは、主を知らない人たちの中で、主のことを伝えたり、あるいは主の愛を反映すべく、愛の業に努めたいと願っています。しかし、主が弟子たちに仕えたように、私たちも信仰を持っている者同士の間で、互いに仕え、愛を示すということは、特別、イエス様が、神様の命令として伝えられたことです。
わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう。(ヨハネ十三章三四、三五節)
ですから、イエス様を信じる者たちが、ただ神様の仕事を押し進めるために忙しくしているだけではなく、時には、お互いに仕えるため、また愛を示し励まし合うために時間を作ることはとても大切なことだと思います。それによって私たちの信仰はさらに強められ、主の愛はさらに私たちの心に満ち溢れるのですから。
どうか私たちが、お互いに神の愛を示し合うことができますように。それによって、主を喜ばせ、また全ての人が私たちの愛し合っているのを見て、イエス様の弟子であることを知り、神に導かれますように。
見よ、兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう。それはこうべに注がれた尊い油がひげに流れ、アロンのひげに流れ、その衣のえりにまで流れくだるようだ。またヘルモンの露がシオンの山に下るようだ。これは主がかしこに祝福を命じ、とこしえに命を与えられたからである。(詩篇一三三篇一~三節)
さて、主にある囚人であるわたしは、あなたがたに勧める。あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き、できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。しかし、キリストから賜わる賜物のはかりに従って、わたしたちひとりびとりに、恵みが与えられている。(エペソ四章一~七節)