愛のいましめ

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2023年5月31日
五月三一日 愛のいましめ (二〇一三年 ひとしずく一二三六)

 イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。 第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。(マタイ二二章三七~四〇節)

イエス様は「神を愛し、隣人を愛すること」が最も大切ないましめであると言っておられます。しかし、それは「いましめ」ではあるものの、イエス様は、愛さないなら、法による罰を下すぞというふうにはされないと思います。イエス様は私たちが彼の愛に応えると信じておられます。だからどれだけどのように愛し、また神に従うのかを、全て本人の自由意志、選択に任せておられるのです。

  神様は初めから、人に選択肢を与えておられます。アダムとイヴは、神様に従うことも従わないこともできましたが、彼等は、自分の意志と選択で、 従わない道を取りました。確かにそれによって、人間に死が入りこみ、二人はエデンの園を出なければなりませんでした。それは罪に対する罰ですが、神様の愛から切り離されたかというとそうではありません。

自由意志、また自らの選択の結果を通して、アダムとイブは多くのことを学んだのだと思いますし、今の時代を生きる私たちも、自らの選択や決断の結果から多くのことを学んでいる過程にあります。

  天地の創造者を無視し、そのおきてに背いて生きることを神様は悲しまれます。 なぜかというと、造られた者たちが造り主の心から離れていては本当の幸せに至ることができないからです。また、多くの問題を引き起こすことにもなり、悲惨を生み出すことを神様は知っておられるからです。人は選択の自由を行使し、神様の意志も無視して進んできましたが、その結果、この地球には悲惨と、破壊が満ちています。

  神様はその愛ゆえに、私たちを救い出そうとご計画されましたが、その救いのご計画は、何と、自ら犠牲になることでした。神の御子イエス様は、その天の栄光ある座から降りられ、人間の形をとられ、苦しみを受け、命を捨てることを通してその目的を達成されたのです。

愛をいましめとして教えられた神は、自らその愛に生き、御自分の命をささげてその手本を示して下さったのでした。全ての問題の根源に罪があることを神様はご存知で、その罪の贖いがなされなければならないことを神様は知ってお られたのです。私たちは神の憐れみによって罪赦され、聖霊によって毎日神の愛が私たちに注がれているからです。(ローマ五章五節参照)

聖書には、あの世に地獄は存在するとあります(マタイ十章二八節、十八章九節など)。しかし、今この地上を見ると、人は人を殺し、自分勝手なことを行っています。そのような状態は地獄のようではないでしょうか? 私たち人間は自分たちの選択の結果から、学び成長すべきですが、自分たちではどうしようもできない状態にまでなりつつあります。そうした状態にある私たちに主は、救いの手を差し出してくださっているのです(第一テモテ二章四節)。

真に人が学び、気づき悔い改めた時、大きな変化が起こります。もはや私たちは神に罰される対象ではないのです。罪のゆえにもたらしてしまった多くの結果とまだ共に生きなければならないとしても、神は共にいてそれらの困難に向かう力を与えて下さるのです。神の怒りをいつ受けることになるかと恐れていることと、神の赦しにあずかり、悔い改めて神と共に歩むことでは、周りの状況が同じようであっても、その本人にとっては大きな違いがあり、新しい人生が始まったように思えることでしょう。そして神は、たとえそれが自ら招いた困難な結果を刈り取るとしても、私たちにその困難を切り抜ける力を与え、必要な助けを与えて下さることでしょう。

律法、規則を破った人に対する処罰は、このような神様の愛を知らず、また神様の愛を信じていない人のためには、必要であるとパウロは言っています。そんなことをしたら罰される、人からどう見られるかわからないということが動 機で悪事から遠ざかっておいたほうがいいという、自分のしたことの結果を刈り取る恐れが、自己中心で十分に愛を持たない人の行動を律してくれます。ですから、この社会、世界にはあらゆる規則を必要としているのです。

わたしたちが知っているとおり、律法なるものは、法に従って用いるなら、良いものである。

 すなわち、律法は正しい人のために定められたのではなく、不法な者と法に服さない者、不信心な者と罪ある者、神聖を汚す者と俗悪な者、父を殺す者と母を殺す者、人を殺す者、

 不品 行な者、男色をする者、誘かいする者、偽る者、偽り誓う者、そのほか健全な教にもとることがあれば、そのために定められていることを認むべきである。(第一テモテ1章8-10節)

しかし、愛は愛によって育まれるのであって、律法の強制と罰への恐れでは、かえって 神が望まれるような、愛の戒めをとても守りきれないと思います。第一、神様ご自身、そんなふうに愛される事を望んでおられるはずはないのでは ないでしょう。

私たちは罰を恐れてではなく、ただキリストの愛が強く迫っているから、愛するのです。こんなに神から愛されているというのに、どうして愛さずにいられるでしょうか。

  わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。(第一ヨハネ四章十節)

  キリストは、わたしたちの父なる神の御旨に従い、わたしたちを今の悪の世から救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のためにささげられたの である。(ガラテヤ一章四節)

わたしは、ただ一つの事を、あなたがたに聞いてみたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。(ガラテヤ三章二、三節)

律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。 恵みから落ちている。 わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。(ガラテヤ五章四、五節)

神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。(第二テモテ一章七節)

愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。(第一ヨハネ四章十八、十九節)

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