五月二六日 夕となり、また朝となった (二〇一三年 ひとしずく一二五八)
最近、眠ることについて色々と考えさせられています。
ある人の説では、夜の十一時から翌朝の三時までが、最も深い眠りをすることができるので、その時間外に長く睡眠するより も、その時に眠ると疲れがとれると言っています。
絶えずプレッシャーに曝されている現代の人たちは、夜更かしを して、仕事をこなそうという思いに駆られてしまいます。しかし、そうした状態では、体も持ちませんし、精神にも霊にも悪影響を及ぼしてし まいます。
私も長い間、夜遅くまでおきて調べものをしたり、眠らないで仕 事を仕上げたりしたことがありました。
しかし、最近は歳をとってきて、無理したくても無理がきかなくなりました。そして夜には頭もうまく動いてくれません。で すから、最近はとにかく眠ることにしています。
結局のところ、もし私が主の望んでおられることをしているのであれば、主は、私の肉体の限界や弱さを知っておられるの で、私に休みが必要なこともご存知なはずです。
もちろん眠ってばかりいていいというわけではありませんし、一生懸命働くのが悪いというわけでもありません。しかし、 時々私たちは、首を切られた鶏のように、頭なしでも、とにかく動き回ってさえいれば、自分は何かをしているという偽りの達成感、安心感で 満足してしまうところがあると思います。これでは、主の御心の的を簡単にはずしてしまいます。罪とは(主の御心の)的を外すことだという 言葉は、とても考えさせられることではないでしょうか。
「安息日を覚えて、これを聖とせよ」(出エジプト二〇章八節)という神の戒めがあります。
これは、簡単に神を忘れ、自分の働きや達成に夢中になって、自分の手の業を誇ってしまう 弱さを抱えた人間を保護するための、主の愛情深いガイダンスだと思います。放っておけばいつまでも働き続けてしまい得る私たちが、自分の 魂の造り主の御 前で休息することはとても大切なことなので、それを戒めにする必要があったのでしょう。
主に完全に信頼する態度は、この休むことの中で培われるのだと思います。
静まって、わたしこそ神であることを知れ。(詩篇四六篇十節)
ことわざにも「果報は寝て待て」というのがありますが、自分の すべきことをしたら、あとは神に任せて信頼し休むという態度が、私たちには必要なことであり、それこそが信仰の態度であると思います。
聖書を見ると、主は、人々が眠っている夜の内に、素晴らしい業をなさったことが幾つも記さ れています。
神様は一日を夕方から始められました。つまり夜の眠りの中で、霊と体を休ませることから人の一日が始まるように定められたのです。ちなみにイエス様が地上に人としておられた時代のイスラエルも夕方から一日が始まり、安息日も金曜の日没の夕方から始まり、土曜の日没までとなるそうです。
…夕となり、また朝となった。第一日である。(創世記一章五節)
その第一日に、創造の最初に造られたものとして光があります。
はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、 むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は「光あれ」と言われた。すると光があった。…夕となり、また朝となった。第一日である。(創世記一章一~三節、五節)
光は人の努力によってもたらされたものではなく、神様の意志とお言葉によって造られました。朝の光も人が努力して得られるものではありま せん。夜明けは神様がもたらしてくださるのです。世の終わりの時代の突入期としての夕があり、主が再臨され至福千年がもたらされるという 朝があるのにもつながります。私たちは、この夜の間、朝が必ずやってくるという信頼する態度が必要なのです。
アダムが深い眠りに入った時、神様はイヴを造られました。
主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。(創世記二章二一、二二節)
主は、サムエルに、その夜の眠りの中で語りかけられ、大切な事を明かされました。
…サムエルが神の箱のある主の神殿に寝ていた時、主は「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれた… (サムエル上三章三節後半、四節前半)
主の使いは夜の眠りの内にヨセフに現れ、幼子イエスの命を守る ためにエジプトに逃げるように示されました。
…見よ、主の使が夢でヨセフに現れて言った、「立って、幼な子とその母を連れて、エジプトに逃げなさい。そして、あなたに知らせるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが幼な子を捜し出して、殺そうとしている」(マタイ二章十三節)
このように主は、私たちが眠っている夜の内に、創造され、環境を備え、状況を変え、語りかけ、大切な事を明かし、私たちの霊をも整え備えてくださるのです。こんなにも大切な休息のために与えられた夜の主との時間を、私たちの虚しい肉の働きに費やしてしまうのはもったいないことではないでしょうか?
もちろん私たちの生活には、ある時には徹夜をして終わらせなければならないこともあるでしょう。しかし、それが習慣となってしまっているのなら、祈って生活を改める必要があるのかもしれません。
主が良き夜の眠りの内にも、私たちに、なくてならぬものを与えて、祝福してくださいますように。
主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。 あなたがたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである。(詩篇一二七篇一、二節)