五月二一日 休息は神の御心 (二〇一四年 ひとしずく一五三六)
「今日は、どうだった?勉強進んだ?」と娘に尋ねると、娘はちょっと悪い事でもしたように、「今日は疲れて眠っちゃった・・・」と答えました。
実は、私も朝から薪小屋を作るので忙しく、昼ご飯を食べたら、もう体がぐったりで、眠ってしまいました。しかし、その一時間の昼寝の後、再び元気を取り戻すことができました。娘に、「休むことも、主の御心だよ」と話しました。
主は、私たちが疲れている時、休んでほしいと思われているのではないでしょうか。私たちも愛する人がくたくたになって働いているのを見ると、いたたまれなくなり、何はさておき、ゆっくり休んでほしいと願うのと同じように。愛する人が、もう疲れてくたくたなのに、さらに体に鞭打ち、働き続けるのを見るのは辛いものです。きっと、そういう時、主も悲しまれているのではないかと思うのです。主は、私たちを愛しておられて、休んでいる私たちを見て喜ばれるのだと思います。
「重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」とイエス様は語っておられるのですから、私たちに休みを与えたいのです。それは、霊の休息はもちろんですが、そればかりでなく、肉体的な休息もだと思います。
真の休息は、全てを司っておられる神に対する信頼の表れだと思います。眠っている時も神様が守っていてくださる、世話してくださる、神様に任せていたら、きっと良いようにしてくださるに違いない。こうした信頼に神様はきっと応えてくださるはずです。
体が疲れている時は、休むのが最善です。主の腕の中で休息するなら、霊も体もリフレッシュされます。そう考えるなら休む時間は、神様からの賜物です。
私たちは、休んだり昼寝したりする時、寝てしまった、時間を無駄にしてしまった、と罪悪感を抱くように感じるところがあると思います。しかし、それが必要な休みであるなら、罪悪感をもって後悔するのではなく、休みと神様との交わりという、神様からの賜物を頂いたと、感謝すべきだと思います。
疲れているあなたを、主が休息をもって祝福してくださいますように。
すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、 わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。(マタイ十一章二八~三〇節)
主なる神、イスラエルの聖者はこう言われる、「あなたがたは立ち返って、落ち着いていることによって救われ、穏やかにし、また確信していることによって力を得る。(イザヤ三〇章十五節)
神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思い煩いを、いっさい神にゆだねるがよい。(第一ペテロ五章七節)