五月十九日 さまよえる群れ (二〇一二年 ひとしずく八二七)
以前、都内で大規模防災訓練が行われました。
震災に遭ったと仮定して、一時避難所へ携帯メールを通して、避難するという訓練でした。しかし、その多くの人が臨時に設置された指示経路からの情報をどうやって受け取ることができるか、わからなくて迷っていました。
ぞろぞろ歩いていく人の群れに「今、どこに向っているんですか?」とインタビューすると幾人もの人が「わからない」と答えていました。そして「どうしてそっちに行くのですか?」という質問に対しては「みんながそっちに行くから、ついて行っているんです」と答えていました。
互いに自分がどこに向かっているのかもわからないのに、 皆が進んでいる方向だから、恐らく大丈夫なのだろうと思ってついて行くのです。それは死に至る道ともなり得るかもしれないというのに。しかし、それが指揮者のいない群衆というものなのかもしれません。
災害や事故が起った際、正しい誘導無しには、二次災害と言う悲惨な結果を招いてしまいます。三・一一を機に、非常時の避難に関して、正しく的確な誘導の必要性をみな痛感しているのではないでしょうか?
ところで群衆の「群」という漢字には、面白い謂れがあります。「群」のへんの部分の「君」の漢字の成り立ちですが、「君」は「尹(手と|の会意文字で、手に<権威の>棒の上下を調和する働きを示す)+口」の会意兼形声文字で、人々に号令して円満にまとめおさめる人」だそうです。あるいは「天地を調和させる棒を持ち、言葉で世をまとめる」ということです。
その「君」が「羊」とくっついて「群」(むれ)となり、「羊のまとまり→むれ」いう意味をなすようになったということです。
この 漢字の成り立ちを見て面白いと思ったのは、羊には羊をまとめる羊飼い、つまり、天の真理を地上にいる者たちに示す方がいて、そこに一つのまとまりができるということを示しているように思えました。それはまさしく、イエス様と私たちの関係を現しているように思えます。羊は羊飼いを必要としており、群衆は正しく導いてくれる方を必要としています。
誘導が無かったり、あるいはあっても間違った誘導をされると人々は苦しい目に遭ったり、滅びに至ってしまい ます。
ところで、聖書にもその群衆についての記述があります。
羊の群れのような群衆は、イエス様がエルサレムにロバに乗って入城された時には「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」と叫びました。しかし、その数日後、ピラトがイエスを裁く時には、群衆を「祭司長、長老たちが…説き伏 せ」たので、彼ら(群衆) は「激しく叫んで、『十字架につけよ』と言った。」のです。(マタイ二一章六~十一節、二七章二〇~二四節)
いかに、簡単に群衆の心というものが、悪しき権威者(当時の宗教リーダー)によって、扇動され、だまされてしまいうるかということを示していると思います。そのように群衆を過った方に導いた祭司長たちのことを、イエス様は「雇人(の羊飼い)」と呼びました。雇人は、羊飼いのような顔をして、実は羊のことではなく自分の利益のことだけを考えているからです。それに対してイエス様は、私たちを救うために命を捨ててくださいました。
羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。
わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。(ヨハネ十章十二~十五節)
主は、この世の試練に囲まれている私たちを、羊のように良く世話し導いて下さる良き羊飼いです。
主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。
主は わたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。
主は わたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。
たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。(詩篇二三篇一~四節)
イエス様は、一匹の羊さえも、滅びるのを望んでおられません。
あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。 もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。
そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、 天にいますあなたがたの父のみこころではない。(マタイ十八章十二~十四節)
主は、私たちが、この世の誘惑や自分のプライド、また強情の故に迷い出し、人生の崖っぷちからころげ落ちた時、救い出してくださいます。しかも、主は、私たちを救い出されるために、ご自身の命をかけて代価を支払ってくださいました。そして蘇った今も、主は迷える羊(人々)を救い出したいと思っておられ、迷った羊を探し出すため に出かけていってくれる地上の羊飼い、働き人を必要としておられるのです。
主は ペテロに、私を愛するなら羊を養うようにと求められました。そんなにも犠牲を払われた主のために、私たちは何をすることができるでしょう か?
それは、主が命をかけて愛しておられるこれらの羊たちを愛することなのです。
どうか、イエス様の望まれる、良き羊飼いになれますように。
彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛する か」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。
またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛すること は、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。
イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼 に言われた、「わたしの羊を養いなさい。」(ヨハネ二一章十五~十七節) また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、 倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。そして弟子たちに言われた、「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。(マタイ九章三六~三八節)