霊のチューニング

五月十六日 霊のチューニング (二〇一二年五月 ひとしずく八二四)

 静まる時間、主と波長を合わせるために立ち止まる時間を毎日のどこかで持つ事はとても益になることだと思います。

先日のバイブルクラスの際、いつもギターを弾いて賛美を導いてくれる兄弟が、その前にギターの弦一本づつを、丁寧にチューニングしていました。その熱心な姿に、私は彼の賛美を導くにあたっての忠実さを見たように思い、とても感動しました。

 演奏のためのギターのチューニングはとても大切です。いくら今日完璧にチューニングをしても、次の日にはまたチューニン グをしなければなりません。またある時は、数曲弾いただけでチューニングが必要になる場合もあるといいます。チューニングが狂っていれば、正しい音が出ず、音楽も狂ってし まいます。そして主を賛美する音楽も霊感に欠けたものになってしまいます。

そのチューニングをするためのひと時が、いかに大事なことかと思います。それは音楽に対するその演奏者の細やかで細心の注意が注がれる時な のです。これは私たちの霊的生活に、とても似ていると思います。

  偉大な宣教師、ハドソン・テイラーはこう言いました

「コンサートが終わった後に楽器の調子を調整したりしない。それはバカげている。調整は始める前にするものだ」

彼は、霊的な調整について、楽器の調子の調整にたとえて言ったのです。

ある人は、息つく暇もなく次から次へと仕事をこなしていかなければならない忙しい毎日を過ごしているかもしれません。しかし、どんなに忙しくとも、まず一日を始める前に、またそれが無理なら、一日の内のどこかで、主と波長を合わせるという霊のチューニングはとても大切で、価値ある時間です。もしその時間を取らないのなら、きっと私たちは調子はずれで的外れな一日を過ごすことになってしまうでしょう。

イエス様も、地上におられた時には、皆がまだ寝静まっている朝早くに起きて、父である神に一人祈る時間をとっておられました。

朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。(マルコ一章三五節) 

地上におられた時のイエス様は、一日中、弟子や多くの民衆に囲まれて、忙しい時を過ごされていましたが、そんな毎日の中でも、何よりも、父なる神と交わることを先ず、その日の第一に置かれたのです。イエス様は父(神)に示されたことだけを行っていました。父に示されることなしには、自分は何も知らないのだと分かっていたからです。 

わたしは、自分からは何事もすることができない。ただ聞くままにさばくのである。そして、わたしのこのさばきは正しい。それは、わたし自身の考えでするのではなく、わたしをつかわされたかたの、み旨を求めているからである。(ヨハネ五章三十節)

 またイザヤ書の中に、次のようなイエス様についての預言があります。

その上に主の霊がとどまる・・・主を知る知識と主を恐れる霊である。この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず(イザヤ十一章二、三節 新改訳) 

イエス様でさえ、まず父(神)に示して頂くために、朝早く起きて祈られ、また、自分の見たり聞いたりしたことからは決して判断されなかったのであれば、まして私たちはどれだけ必死になって、主から示して頂くために祈り求めるべきでしょう?

一日の始めに主を求めることは、素晴らしいことであり、一日を通して主に近くあることは、さらに祝福をもたらします。

心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。 自分自身を知恵ある者と見るな。主を畏れ、悪を避けよ。」(箴言三章五~七節 新共同)

 ダビデは、祈りを神の御前にささげる薫香のように、そして彼のあげる手を夕べの供え物のように見なして下さいと祈りました。 

主よ、わたしはあなたに呼ばわります。すみやかにわたしをお助けください。わたしがあなたに呼ばわるとき、 わが声に耳を傾けてください。わたしの祈を、み前にささげる薫香のようにみなし、わたしのあげる手を、夕べの供え物のようにみなしてください。(詩篇一四一篇一、二節) 

朝は、その日一日のため、夕は、その日一日の感謝や、色々な人たちのためのとりなしの祈りの時とすると良いかもしれません。しかし、祈りの時間やその回数などは、それぞれの都合により、各自異なると思います。主が、自分に合う祈りの時と場を備えてくださいますように。

また、うまく祈りの時間、静まる時が持てなかったからといって落胆しないでください。これは新しい習慣を築くようなものです。何をするにも、新しい習慣を築くには時間がかかるものです。ですから、とにかくまずはやり始めてみましょう。そして、できない日があったとしても、がっかりせず、あきらめず、やり続けてみましょう。

霊のチューニングをしっかりして、主の祝福で満ち溢れた素敵なメロディーを醸し出せる一日になりますように。

静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる。(詩篇四六篇十節)

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