五月十四日 気づかぬ恵みの内に生かされて (二〇一二年五月 ひとしずく八二五)
友人がお母さんのお葬式で、自分で作詞作曲したというお母さんに捧げる歌を歌いました。お母さんへの感謝に溢れた歌で、とても素晴らしいので、私はその歌を録音して、機会ある毎に人に聞かせています。それを聞いた何人もの人が、目に涙を浮かべるのを見ました。
そしてある人が言ったこの言葉が印象的でした。「こうした歌を作ってくれるのは、死んでからなんだよね」と。その言葉から、子供さんとの関係について、試練を感じていることが伺えました。
確かに私たちは、親を失って初めて、親の有難さがわかり、真に感謝するものなのかもしれません。もっと生きている間に感謝や賛辞を伝えたり、親切にしてあげることができれば良いのですが、普段はなかなかそれができないでいるのです。
これは「恵み」というものがわかっていないからではないかと思います。生まれてからずっと親に何でもしてもらって生きてきて、それが当たり前のように思ってしまうのです。しかし、私たちの誰もが神様に対して、この子供のようではないでしょうか?
普通親は、子供がどんなに感謝に欠けており、また悪態をついたり、不平を言ったり反抗したりしても、それで見放したり、世話するのをやめることはありません。
正しく天の父である神様の愛と同じようです。
私たちは、そのような愛に値しませんし、私たちの邪悪さや感謝の無さに応じて裁かれたら、私たちは、非常に厳しい状態に置かれてしまいます。しかし、主の愛と憐れみ、恵みに与かって、私たちは今生かされているのです。
人はなかなか、自分の罪と言うものがわからないものです。しかし、それでも天の父は私たちをこんなにも愛し、世話してくださっているのです。
ある人が、こんな事を言っていました。救いを普通の人に説明するには、まず自分がどれだけ罪深いかに気づいて、苦しんだり、非常に困ったハメに陥ってしまうまで待つ。そしてその人が、自分はどうしようもない罪人なのだと分かった時に福音を伝えたら、救われると思うと。
確かに自分がいかに罪深いかということがわかれば、十字架の恵みももっと感謝するだろうと思います。しかし、自分の罪深さに気付くまで救えないとしたら、どれだけの人が救われるのかと考えてしまいます。
イエス様は「誰でも幼子のようにならなければ天国に入ることはできない」(マタイ十八章三節)と言われました。幼子は何か叱られたら素直にごめんなさいとは言うものの、罪の深さの認識などしません。そして「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか」(エレミヤ十七章九節)ともあり、どれだけ自分の心が悪に染まっているかを理解できる人はいないのです。私たちは、自分がいかに罪人であるか悟らず、しかしそれでも、そのありのままの姿で尚、神から差し出されている恵みの内に生かされているのです。
幸い神様は、ある時、突然いなくなり、二度と感謝も伝えられなくなるといったことはありません。いつも共にいてくださるので、いつでもどこでも感謝を伝えられます。
どうか私たちが一つでも多く、神様の恵みに気づき、心から感謝できますように。
また、家族や友人から頂いているたくさんの恵みにも気づき、彼らに対して、感謝の気持ちを今すぐに伝えることができますように。いつも当たり前のようにいる人と、ある日突然、会えなくなることもあるのですから。
互いに愛し合いなさい。(ヨハネ十三章三四節)
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(第一テサロニケ五章十六~十八節)
あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。(エペソ二章八、九節)
いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。(ルカ六章三五節後半)