五月十二日 悪魔の策略に対抗して立ちうるために (二〇一二年五月 ひとしずく八一八)
これは、何十年も前に、友人から聞いた話です。
中国の西安の秦始皇帝陵の兵馬俑(へいばよう)坑を訪問した若者が、悪鬼に取り憑かれてしまいました。そこは現在、世界遺産にも登録されている有名な観光名所になっています。兵馬俑というのは、兵隊や軍馬、戦車などの模型のことで、秦始皇帝陵の3つの俑坑には戦車が100台、陶馬が600体、武士俑は成人男性の等身大で8000体近くあり、みな東を向いているそうです。
シンガポールから来て、悪魔に取り憑かれたその青年は、急に暴れ出し、最初は誰も彼を押さえることができないほどでしたが、四、五人の男性でやっと取り押さえることができたのでした。その後、彼は、錠のかかる部屋の中に押し込められました。中国の医師たちは彼をどうすることもできませんでした。そこに、ある神父が呼ばれました。彼の悪魔払いをするためです。そして、神父が祈ると、悪霊はその青年から出て行き、やっと彼は正気に戻ったということでした。
他にも、悪霊に取り憑かれた人の話を聞いたことのある人は大勢いることと思います。悪霊、それは認めたくはありませんが、確かに存在します。
聖書にも、人が悪霊に取り憑かれた話がいくつもあり、悪魔の存在がはっきりと明記されています。
悪魔は、自分の正体を暴露されるのを恐れていると思います。そして私たちに、悪魔との熾烈な戦いの最中にあることを、知ってもらいたくないと思っているのです。しかし、聖書を読めばわかることですが、私たちは常に悪魔との戦闘を繰り広げているのです。
悪魔に機会を与えてはいけない。(エペソ四章二七節)
最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。(エペソ六章十~十二節)
これらの聖句だけを見ても、悪魔は常に私たちの隙をつけ狙っていること、また悪魔が策略を使うことなどがわかります。だから私たちは、その悪魔の策略に対抗すべく、常に警戒し、戦う態勢を整えていなければならないのです。悪魔の存在や悪魔との戦いだなんて考えたくもない、ただ平穏無事に過ごすことだけを思っている、というクリスチャンは、現実逃避した眠りこけているクリスチャンだと思います。そしてそんな考えを持っているなら、それこそ悪魔の思うツボです。悪魔の策略にまんまとはまって、警戒心を失っているからです。戦争において、相手が眠っていたり、油断している時を狙って不意打ちをすることほど効果ある攻撃はありません。悪魔は私たちを眠らせ油断させ、そして攻撃してきます。さらに、私たちがお互いクリスチャン同士で比べ合ったり、反目させるのに忙しくさせて、張本人である悪魔のことを忘れさせることは、悪魔の得意の業なのです。そうした策略を行って、私たちクリスチャンが敵である悪魔に対して攻撃を仕掛けないようにさせているのです。
私たちは、今一度、悪魔の存在とその策略について、敏感になる必要があると思います。もし、悪魔の存在を意識してさえいないのなら、どうして戦うことができるでしょう?
私たちは立ち向かわねばなりません。悪魔を恐れるには及びません。私たちがただ、神の力によって悪魔に立ち向いさえするなら、悪魔は必ず逃げ去るのですから。
神に従いなさい。そして、悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。(ヤコブ四章七節)
また、あまりにも悪魔の存在を意識するあまり、恐怖を抱く必要はありません。彼は、私達を攻撃するにも、神様によって許された分しかできないのですから。だから、たとえ、悪魔の攻撃にあっても、それは一時的なもので、その全てを代えて益となることを主は知っておられて、許されるのですから。ヨブに災いをもたらしたかった悪魔はまず神からその許しをもらわなければなりませんでした。(ヨブ記一章、二章)
そして、悪魔の攻撃による試練を通してヨブに善がもたらされた時、神様はヨブをさらにあらゆる面での繁栄を回復されました(ヨブ四二章)。
イエス様は悪魔について「悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。」(ヨハネ八章四四節)と語っています。
創世記三章には、悪魔がイブに神様の愛を疑わせたこと、また誘惑したことが記されています。神のようになりたかった悪魔は、自分自身が神に対して反抗するだけではなく、他の者をも神に対して反抗させようとしています。
彼はイエス様を誘惑して、自分を拝むように求めました。
悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて言った、『これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう』。(ルカ四章五~七節)
神様は、イエス・キリストの罪のあがないを通して私達をどれほど愛しておられるかを示されましたが、悪魔は私達を常に批判、非難し、「お前のような罪あるものが、神のために生きれるはずがない」とささやくのです。イエス様がその全ての罪を十字架ですでに始末されたというのに。
私達は、罪の呪いから解放されているのです。イエス様ご自身が罪による呪いをご自身の体に受けられて、その呪いに終止符を打って下さったのですから。
キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。」(ガラテヤ三章十三節)
…わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった…(黙示録一章五節)
私達には、私達をあがない、私達を擁護してくださるイエス様がいます。このイエス様の恵みにあって強く立ち、悪魔に立ち向かいましょう。どうか、私たちが戦う者となれるよう、主が助けてくださいますように。
悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。(エペソ六章十一節)
悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。(エペソ六章十三~十八節)