五月五日 子供のために (二〇一四年五月 ひとしずく一五三四)
子供の日に、テレビで子供たちについての番組を見ました。子供たちが自分たちだけで自由に遊べる「秘密基地」についてのものでした。
学校と塾での勉強の詰め込みで、ただでさえ遊ぶ時間のない子供たちのために、お母さんたちが立ち上がり、都会の公園の中に子供のための空間が造られました。子供たちによって造られるツリーハウスのようなものですが、初めは「子供たちが怪我したらどうする」 などの反対がありましたが、いくらかの危険を覚悟で、子供たちの自由な遊びの場を確保したいというお母さんたちの努力が実ったそうです。
画一化された組織の中での詰め込み教育と競争のプレッシャー、いじめなど、子供を守り、支える必要があることは数多くありますが、 これは、そうした中で子供たちのための努力の結果の一つであると思います。このように子供のために立ち上がる大人がいることは、とても貴重で素晴らしいことだと思います。
ところで、私たちクリスチャンの立場で、子供たちのためにどのように奮闘するべきなのか、と考えさせられました。そして、それはやはり、子供たちの信じる心を大切にするために奮闘することだと思いました。物質主義で、精神的なことはおろそかにされているこの世にあって、信仰を持っている大人が、神の言葉の真理に基づく、動く事の無い礎を、何よりも必死になって、子供たちの心に築いて行かなければならないと思います。
人は蒔いたものを刈り取ることになります。それは私たちクリスチャンも同じことです。神の忍耐と寛容の時代にいつまで も甘んじていて、 神の御心を求めず、この世に妥協しながら生きていても、神様の前に各自が言い開きをする時が必ずやって来ます。私たち大人は、真剣に神が望まれていることは何かを常に祈り求めて、子供たちを真理の道へと導き、見守っていかなければならないと思います。
子供たちは成長するにつれ、本物でないものに気づいていきます。しかし、私たちはイエス様のゆるしの愛ゆえに、本当の希望があるということを伝えることができます。こうした神よりの真理の礎が据えられていなくては、波に翻弄される小舟のようで、それこそ子供たちにとっては 大変な将来となることでしょう。しかし、天地を造られ、命を捨てるほどに私たちを愛してくださっている神の愛を信じる信仰が心に据えられているなら、きっとこの混沌とした世界においても、頼ることのできる力強い神の恵みの内に成長し、神の使命を果たすことのできる充実した人生を送ることになると私は信じま す。
彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである。(マラキ四章六節)
天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。(マタイ二四章三五節)
信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいすことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。(ヘブル十一章六節)
神から賜わった恵みによって、わたしは熟練した建築師のように、土台をすえた。そして他の人がその上に家を建てるので ある。しかし、どういうふうに建てるか、それに気をつけるがよい。なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、それぞれの仕事は、はっきり とわかってくる。
すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。もしある人の建てた仕事がそのまま残れば、その人は報酬を受けるが、その仕事が焼けてしまえば、損失を被るで あろう。しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう。(第一コリント三章十~十五節)
それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。(マタイ七章二四~二七節)
このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。 (第一コリント十三章十三節)