主が共におられる

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2023年5月1日

五月一日 主が共におられる (二〇一二年五月 ひとしずく七九九)

 時々、試練の最中にあると、主は共にいてくださらないように感じることがありませんか? そして、主が共にいてくださるのなら、こんな災難や試練が起こるわけがないし、起こったとしてもすぐに助け出してくださるはずだと、不平と疑いを抱いてしまうことが・・・。

旧約聖書にあるヨセフの話はとても興味深いものです。

ヨセフは兄たちの怒りを買い、奴隷として売られてしまいます。そしてパロの役人で、侍従長のポティファルに買い取られます。(創世記 三七章三六節)父ヤコブから、十二人の子供の中でも特別に溺愛され甘やかされて育ったヨセフのつらい奴隷生活がここから始まるのです。しかしそのヨセフの奴隷生活の記述の中で「主がヨセフと共におられた」という言葉が何度も出てきます。

(創世記三七章から読んでみてください。ちなみにヨセフの話は五十章まで続きます)

「主がヨセフと共におられた」とあるのですが、しかし、だからといってこの時のヨセフの人生が順風満帆であったわけではありませんでした。それどころか、ヨセフの人生の中でも最もつらい試練の時期、彼の信仰が試される時だったに違いありません。

主が共にいて恵みが注がれているというのは、イコール問題が全て無くなったというわけでも、全て自分の思い通りに事が運んでいるというわけでもないのです。 

 辛い状況の中でも、主はヨセフに恵みを与えてくださいました。ヨセフの忠実さが主人に認められ、一時は信頼されて重要な仕事を任されるほどになったのです。しかし、仕えていた主人の妻に言いよられ、それに応じなかったために、彼女の嘘によって濡れ衣を着せられ、牢獄に入れられてしまうのでした。またしても主は、ヨセフと共におられましたが、ヨセフが濡れ衣を着せられたり、牢獄に入れられる状況から逃れるようにはしてくださらなかったのでした。

この時、ヨセフは「主が共におられるなら、どうしてこんな理不尽なことが!?」と不平を持ち、主を疑うこともできたでしょう。しかし、ヨセフは主に信頼することを止めませんでした。ただかわいそうなことに、 そのヨセフの主への信頼にも拘わらず、その後、彼が牢獄から素早く解放されたかというと、そうではありませんでした。主は、彼が毎日望み をもって生きるための恵みを与え、支えて下さったでしょうが、牢屋から出るには、まだしばらくかかったのでした。しかしその後、主の深い御計画を知る時がやってくるのです。牢で知り合った人が仲介となり、ヨセフが王の前に召し出され、王を悩ました夢の解き明かし(豊作のあと飢饉がくるという)をする機会が訪れます。そして実際その通り となり、ヨセフはエジプトの飢饉対策の手柄を立て、王パロの宰相とまでなるのです。(四〇章~四一章)

 「わたしは決してあなたを離れずあなたを捨てない」(ヘブル13:5) と聖書にあるように、主はいつも私たちと共におられます。しかし、ひどく傷ついたり、何かつらいことがあると、自分の思うように主はしてくださらないで はないか、主はどこにおられるのか?と、不平と疑いを抱いてしまいそうになります。そういう態度でいると、主が日々、恵みを下さっている のに気づくことも、主の素晴らしい御計画に信仰を持つこともできません。主はそのようなつらい状況における恵みと訓練とを下さっているの です。ヨセフが牢獄にいた時も、主は彼と共におられ、恵みで満 たしてくださいました。欺かれ、忘れられ、牢獄に閉じこめられるというつらい経験は、ヨセフを王パロの宰相とするための訓練と備えのためだったのです。 もしヨセフが、自分の故郷のことを恋しく思って、自分がいかに恵まれない存在となってしまったか、またこの牢獄に閉じこめられてしまったと嘆いてばかりいたら、落胆と絶望で、共にいてくださる主の存在や、主の恵みに気づくこともなかったことでしょう。そして何より、その後の祝福もなかったのです。

私たちが試練に遭う時、こうしたことを覚えているべきだと思います。何年にもわたって同じ試練が続き、先が全く見えないような状況にいる人もいるでしょう。ヨセフも、まさしくそういう状況にあったと思います。しかし彼は、奴隷として主人に仕えなければならない時も、牢屋に入れられた時も、自分の肉体が束縛されていることを嘆く代わりに、主の自分に対する御計画を信じ、主の御霊の声に従うことの中に喜びを見出していたのではないかと思います。

閉じこめられた世界においても主の御霊は、私たちに恵みを注いでくださっているのです。どうか感謝と賛美をもって、主の恵みを褒め讃えることができますように。つらい試練の最中にあっても、主の恵み深さに私達の目が開かれますように。
 主はいつも私たちと共におられます。

 わたしはどこへ行って、
 あなたのみたまを離れましょうか。
 わたしはどこへ行って、
 あなたのみ前をのがれましょうか。
 わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。
 わたしが陰府(よみ)に床を設けても、
 あなたはそこにおられます。
 わたしがあけぼのの翼をかって海のはてに住んでも、
 あなたのみ手はその所でわたしを導き、
 あなたの右のみ手はわたしをささえられます。
(詩篇一三九篇七~十節)

 わたしの生きているかぎりは恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。(詩篇二三篇六節)

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