四月五日 神の愛につき動かされる時 (二〇一三年三月 ひとしずく一一一〇)
母と夕方のニュースを見ていました。秋田県でも津波対策が進められているという話を聞いていた時、隣りに座っている母が、「足手まといになるオラを置いて逃げないとだめだよ」と言いました。「こんな山ん中に、津波が来るはずないべ」と私が答えると「地震でも何でも、早く動けないオラをかまっていたら、皆死んでしまうから、置いて逃げなきゃだぞ」と真剣な口調で言うのです。
私は、いたたまれない気持ちになりその部屋を出たのでした。後で妻が、とても感動する話があったよ、と言って私に、インターネットで見つけたニュースを見せてくれました。
それは皆さんもよく御存知かと思いますが、オホーツク海に面した北海道、湧別町で起こった暴風雪による災害のニュースで、父親が九歳の娘の命を守るために、吹雪きの中で十時間抱き続けて亡くなった話でした。
<消防関係者による話–> 「ふたりの上半身は雪で埋まっていたのですが、夏音ちゃんが窒息しないように小さい穴が掘られていたんです。岡田さんは娘を温めながら、顔に積もった雪を必死で振り払っていたんです。それを見た救急隊員は、岡田さんがどれほど必死で娘を守ろうとしていたのか、胸がつまる思いがしたそうです」
父親の命と引き換えに守られた夏音ちゃんは、凍傷だけで済み、奇跡の生還を遂げたのでした。
自分の命など顧みずに、ひたすら娘の命を守ることだけに必死だった父親・・・。
これは何ともやるせない出来事でしたが、それと同時に、この父親の娘に対する深い愛の行為は、日本中に、大きな感動を与えたのではないでしょうか。
人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。(ヨハネ十五章十三節)
自分より他を思う行為、犠牲的に自分を捨てる愛は、とても尊く、沢山のことを語ります。
私は、このニュースの話を聞いてから再び母のことを思いました。私が子供の頃、父が酔って私に暴力を振るおうとした時、母は私を胸に抱いて、父の拳を背中で受けてくれました。
小さかった私の心にも、自分の受けている愛と保護には、母親の痛みと傷が代価にかかっているということが焼き付けられたと思います。
それは他を生かす愛であり、イエス様を通して示された神様の愛なのです。
神様の愛の思いが、私の母を、そして吹雪の中で娘を守ろうとした父親を突き動かしたのです。
イエス様は、私たちのために鞭打たれ、逃げることが出来たのに、私たちの癒しと救いのために、自分の命を犠牲にして下さいました。それ以外に、私たちが罪から解放されることはないため、罪の代価として私たちが受けるべき闇の苦しみから救い出すため、イエス様は死に向って歩んで行かれたのです。そして、その愛は今も、人を突き動かし続けているのです。
三・一一の震災の際にも、自分の命を犠牲にして、愛する家族や町の人々を助けた尊い人たちがいました。また遠くから様々な形で、被災した方々を助けに行った人たちもいました。
陸の孤島となって食糧が尽きて五日も経った時、ついにあらゆる困難を乗り越えてやって来てくれた救援隊の人を見た時、神様に見えたと、被災者の方が証言していましたが、実際、神様の愛が、その人たちの心を突き動かし、生きる力を与えてくれたのです。
被災者の方々は「あなたは忘れられていない。あなたは尊い。生きて下さい」という神様からのメッセージを受け取ったのだと思います。
北海道湧別町で、父に助けられた九歳の夏音ちゃんも、同じだと思います。夏音ちゃんの悲しみを思うと、とても胸が痛みますが、彼女はこれからもずっと、お父さんの愛に、そして神様の愛に守られ生かされていくのでしょう。
どうか、夏音ちゃんの悲しみが慰められ、特別な使命をもった彼女の人生に、神の恵みと慈しみとが伴うようにと、心から祈りたいと思います。そして、日本中の人たちが、この出来事を通して、尊い愛の教訓を学べるようにとも祈りたいと思います。
主が、私たちをその愛でつき動かして下さいますように。私たちが主の御霊の愛に心と身を委ねることが出来ますように。
なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。
そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。(第二コリント五章十四、十五節)