新しい人

三月二九日 新しい人 (二〇一三年 ひとしずく一二二七)

   誰でもイエスキリストにあるならば、その人は新しく造られたのである。古いものは過ぎ去った、見よ全てが新しくなったのである。(第二コリント五章十七節)

 この聖句を読んで、自分はイエス様を信じているけれども、本当に新しい人になったのだろうか?と疑問に思う人もいるかもしれません。あるいは、新しいスタートを切りたいと思っても、自分の古い癖に何度も陥ると、 その聖書の言葉は自分には当てはまらないようにさえ思えてくるかもしれません。

  しかしこれは、神の言葉を信じるか、あるいは自分の感覚、感じていることを信じるかのどちらを選ぶかということに行き着くと思います。

 神様は、イエス様を受け入れた人に対して、あなたは新しい人だと言っています。そして、それを新しく生まれることと例えています。

  だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない(ヨハネ三章三節)

  「新しく生まれる」ということは、イエス様の霊を心に迎え入れることによって、その神の霊によって生まれることです。

   彼(イエス)を受け入れた人、すなわち、その名を信じた人には彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また人の欲にもよらず、ただ神によって生まれたのである。(ヨハネ一章十二、十三節)

  < 二〇二三年二月、以下付け足し–>

 前記の聖句には、「あたらしく造られた」「神によって生まれた」という言葉が使われています。 それと同時に、「古いものは過ぎ去った」という言葉も。また聖書には以下のような言葉もあります。

それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。 (ローマ六章七、八節)

 このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。 (ローマ六章十一節)

 わたしの兄弟たちよ。このように、あなたがたも、キリストのからだをとおして、律法に対して死んだのである。それは、あなたがたが他の人、すなわち、死人の中からよみがえられたかたのものとなり、こうして、わたしたちが神のために実を結ぶに至るためなのである。 (ローマ七章四節)

 あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。 わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。 だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。 (コロサイ三章三~五節)

 先に「新しく生まれた」に関して挙げた聖句に対比する「すでに死んだ」とする後者の聖句があります。何を言いたいかというと、古いものと新しいものが共存できない、ということです。私たちは、イエス・キリストにあって新しく造られた者であるということを信じ、認め、受け入れるなら、そのように生きるということです。しかし、古いものを捨てて、また古い自分を服従させ、古い人は死んだものとしないなら、また古い肢体を殺す(つまり新しい人を受け入れてそれに生きようとしない自分のうちにある古いものを服従させる)ことをしないなら、一つの体に二つの主人がいるようなものとなってしまいます。イエス様も次のようなことを語られています。

   だれも、真新しい布ぎれで、古い着物につぎを当てはしない。そのつぎきれは着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなるから。

だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちがするであろう。 (マタイ九章十六、十七節)

 つまり、古い生き方、古い自分(肉欲に捉えられた古い人)が葬られないと、新しい人が生まれない、生きれないということです。

 これは自殺して自分の命を絶ちなさいということでは、もちろんありません。そうではなく、新しい人として生きるために、古い人を葬りなさい、日々古い自分を十字架に掛けなさいということです。

それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。 (ルカ九章二三、二四節)

 古い人は、新しい人、つまりキリストに完全に従う者に場所を譲らなければならないのです。パウロが次のように言ったようにです。

   生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。 わたしは、神の恵みを無にはしない。もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになる。 (ガラテヤ二章二〇、二一節)

 古い人は、自分の力で義を獲得しようとします。自分の体裁を保ち、自分を良く見せ、自分の達成を誇るのです。しかし、新しい人はキリストの思いを持ちます、いえキリストにすべてをゆだねるので、キリスト御自身の御霊がその人のうちにあって生きられるということになるのです。その時、新しく生まれた人として、「肉欲によらず」「ただ神によって生まれた」という状態になるのです。

   あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、 造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。(コロサイ三章九、一〇節)

他の投稿もチェック

空白

ひとしずく1524-空白  今日、「墨美展」という美術展に招かれ、行って来ました。そこに私の娘の作品も展示して 頂いています。指導してくださった先生のおかげで、娘の初の作品でしたが、なかなかメッセージがこめられた作品のように思え霊感されまし た。  ところで、その時頂いたパンフレットに興味深いことが書かれていました。それは「余白の 美」という題で、いかに何も描かれていない部分が大切な役割を果たしているか、というような内容でした。  私は、このメッセージに出会えたことは大きな収穫であったと思いました。...

そ こで会おう

ひとしずく1523--そ こで会おう イエスが墓にはいないという女達の言う言葉を不思議に思い、そのことについて話しながら、 エマオへ向う二人の弟子がいました(一人の名前はクレ オパ)。彼らがエマオに向っていたのは、エルサレムに留まっていたら、自分たちの主のように、ユダヤ人たちに捕まえられ迫害されるであろ うと恐れて、逃げるためであったと考える人がいます。確かにこの二人の弟子たちは、イエス様に会った後、すぐにエルサレムに引き返しまし た。彼らのエマオに行く用事はイエ...

新しい命の内に

ひとしずく1522-新しい命の内に  古代キリスト教神学者アウグスチヌスが、ある時、昔の友人に出会ました。その時、友人は 「お前が、以前どんな生活をしていたか知っているぞ」と言いました。確かにその通りだったようです。しかし、アウグスチヌスは、「今私 は、キリストにあって別の人となったのだ」と答えたそうです。  聖書に「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過...