宗教、宗派を超えた愛をもって

三月二二日 宗教、宗派を超えた愛をもって (二〇一三年三月 ひとしずく一一〇五)

 何年も前のことになりますが、本田哲郎という神父が、国際宗教会議のパネリストとして、次のように語られていました。

「イエス・キリストを信じることとキリスト教を信じることは違います。イエスは名誉を求めることも、また会員の数を増やすことに心を費やすようにとも言われませんでした」

本田哲朗神父はカトリックの高い地位にいた人でしたが、当時ホームレスの人たちと共に座り込みをしたりしていました。

ふとそんなことを思い出したものですから、私は彼のことをインターネットで調べてみようと思いました。そして、彼の二〇一一年七月八日の戦没者追悼法要での話を見つけました。以下はそのお話からの抜粋です。

 「…最初に 『宗教が人を救うのではない』 とお話しました。救いとは何か。人がその人としてのびのび生きられるようになること。この地上で、安心して、平和で、喜びの中で生きていけるようになること。そして、キリスト教の言い方をすれば、天国での永遠の命を得ること。これが救いだと考えています。ひたすら来世の永遠の命をいただけるといっても、この世に生きている時に、救いがない、解放された喜びがない、ひたすら死ぬまで耐え忍ぶだけというようだったら、こんなつらい話はないなというのが、私の正直な思いです。逆境の中にありながらも、それをみんなで変えていく努力をしながら、自分が自分らしく生きれるようになる。それがなければ、来世での救いといっても、説得力はありませんよね。私にとっての救いとはそういうことですね。ですから、宗教は何のためにあるかというと、人々に、そのことに気づかせるためにあると、私は思っています。

 何百年もの間カトリック教会は、『教会の外に救いはない』と言ってたんですね。『うちとこの宗教に入ったら救われますよ』と、こんな感じでした。教会にはラテン語で『教会の外に救いはない』という言葉が石に刻まれていたぐらいです。とにかく、どんなにしてでも教会に導いて、洗礼を受けさせる。そうしてはじめて天国を獲得できる。そんな発想でした。

 それが、第二バチカン公会議が一九六二年から一九六五年に開かれて、思いがけない見直しがされたんです。『教会の外にも福音が芽生えている』 つまり、教会の内、外に関係なく、救いはあるんだよと宣言しました。

 そして、これも初めてのことなんですけど、『他宗教との対話をしてください』。折伏じゃない。仏教の僧侶と問答して、僧侶をキリスト教に引きずり込むというような対話ではなく、相手の宗教の立場をまるごと認める。そして、こちらではこういうことを目指しています。そちらが目指していることで矛盾しないことについては、一緒に協力してやりませんか。こういうことがOKになったんですね。

 どの宗教が本物で、どの宗教がいんちきか。そういう形で救いを保証しようとするのではなく、どの宗教であっても、人が人として大切にされること、大事にする宗教であれば、互いに協力し合えるはずなのです。みんなが安心して働き、生活できるように、その実現を目指して一緒に働きましょう、ということです。だから、宗教としてのキリスト教の役割は、信者を増やすことではないとしっかりわきまえ、聖書が示しているとおり、『自分が大切なように隣人を大切にしよう』、人が人として大切にされることこそ大事だと、社会のみんなに気づいてもらうことです。ですからキリスト者の使命は、信者の勧誘ではなく、大切にされていない仲間たちを見たら、彼らと大切な仲間として身をもって関わることですね。こんなふうに思います。まとまりのない話で申し訳ございませんでした。」

 彼のお話を聞いて私は、自分がどんな生き方をしているのか、またその生き方の中で、自分の信じている方、主イエスの言っておられることをどれだけ反映しているかと、考えさせられました。そして、主イエスを本当に信じているのなら、主の愛、主の霊が自分の中を流れているはずですから、彼が言うように、宗教や宗派を超えた、その広く深い愛をもって、まずは一人一人を大切な存在として受け入れ理解し、協力しあって、さらに、その生き方を通して、 福音を宣べ伝えて行くことが大切なのだと思いました。

<二〇二三年二月–本田哲郎神父のお話を読み返して、思い出すことがありました。それは黙示録三章に記されているラオデキヤ教会についての預言の言葉です。ラオデキア教会は、今の主の再臨前の教会について言っているのだと解釈する方たちも少なくないですが、そこで描写されているのは、生ぬるな教会の外にイエス様が立って戸を叩いておられる様子です。そして主イエスは、「中に入れてくれないか」と言っておられるのです。>

こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の 交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。

何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。(ピリピ二章一~三節)

あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。(マタイ二五章四〇節)

他の投稿もチェック

空白

ひとしずく1524-空白  今日、「墨美展」という美術展に招かれ、行って来ました。そこに私の娘の作品も展示して 頂いています。指導してくださった先生のおかげで、娘の初の作品でしたが、なかなかメッセージがこめられた作品のように思え霊感されまし た。  ところで、その時頂いたパンフレットに興味深いことが書かれていました。それは「余白の 美」という題で、いかに何も描かれていない部分が大切な役割を果たしているか、というような内容でした。  私は、このメッセージに出会えたことは大きな収穫であったと思いました。...

そ こで会おう

ひとしずく1523--そ こで会おう イエスが墓にはいないという女達の言う言葉を不思議に思い、そのことについて話しながら、 エマオへ向う二人の弟子がいました(一人の名前はクレ オパ)。彼らがエマオに向っていたのは、エルサレムに留まっていたら、自分たちの主のように、ユダヤ人たちに捕まえられ迫害されるであろ うと恐れて、逃げるためであったと考える人がいます。確かにこの二人の弟子たちは、イエス様に会った後、すぐにエルサレムに引き返しまし た。彼らのエマオに行く用事はイエ...

新しい命の内に

ひとしずく1522-新しい命の内に  古代キリスト教神学者アウグスチヌスが、ある時、昔の友人に出会ました。その時、友人は 「お前が、以前どんな生活をしていたか知っているぞ」と言いました。確かにその通りだったようです。しかし、アウグスチヌスは、「今私 は、キリストにあって別の人となったのだ」と答えたそうです。  聖書に「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過...