マルタではなくマリヤのように

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2023年1月14日

「ひとしずく」ーーひと昔編

一年の初めに、早く今年の計画を立てて、そして一歩踏み出して、エキサイティングな活動に取り組みたい、福音を伝えるために、あれをしてこれを して、と逸る気持ちに追い立てられてしまいます。しかし、本当は心の奥底ではわかっています。主からはっきりと聞かなければならないことを。
私たちの心には、とにかく忙しくしていて、何かしていることに満足したいマルタの思いが潜んでいます。主が語っておられることを聞かないで、または聞いても、それを心と霊でしっかり消化していないのに、とにかく行動しなければと考えてしまうのです。
 もちろん、日常のしなければならないことはあります。雪だって、どんどん積もります。屋根の雪下ろし、道や車庫前の雪かき、駅のプラットホーム の雪かきなどなど。しかし、こういったことを言っているのではなく、神様の御心を行うことにおいて、霊の内に神様の前にしっかりと静まることです。まだ聞いていないなら、また主がまだお語りになっていないなら、主の前に静まり耳を傾けていないのです。

 主の言葉を持たないで走り回りたくない。主のしなさいと言われた一歩を踏み出したい。主とともに歩むのでなければ、そこに保障はない。私の望み はやり遂げても、神の望みがなされない…。

 それがわかっているのに、どうしても自分の思いで、動き始めようとしてしまうのです。これでは本当の幸せ、本当の平安など期待できるでしょう か?

 私たちが求めているものは、人から褒められたり、認められたりすることから来るものではないはず、また自分の行いによる満足から来るものでもな いのです。それは、ただ神様の御心を行っている、そして神様がほほ笑んでくださっているとわかることから来る満足だと思います。

 何年も前のある新年のことを思い出します。その年の神様の御計画を尋ねていた時、主は御計画を示してくださいました。しかし、それをしっかりと 聞き取るのに一ヵ月以上かかりました。それはカンボジアの学校に絵本を届けるというプロジェクトを行う年でした。

 その時は、じれったくなるほど、主の御前にいくつもの質問を携え、何度も待たねばなりませんでした。しかしあとになって、時間をかけて主に尋ねて良かったと思うようになりました。
 そのプロジェクトは年内の実現は、不可能のように思えましたが、結局、主は奇跡的にそのプロジェクトを成し遂げさせて下さいました。人の力では決してできないことでした。主を待ち望み、主に聞く時間をたくさんとっていたので、主は私たちの心を良く備えることができたのでした。

 私たちは、深く主の霊の中に入った分しか、主に用いていただくことはできないのです。

–祈り– 
 主よ、私たちの心を自分の肉の思いから解放し、あなたの望みが何であるかを察することができるように助けて下さい。あなたがそんなにも私たちの ことを気遣ってくださるのですから、私たちもあなたの望みが何であるかを知りたいのです。そしてあなたがどんなことを考え、あなただったらどんな 計画を立てたいと思っておられるかお聞きしたいのです。

 一年の初めの月も、もう半分を過ぎ去ろうとしています。しかし心騒がせないで、じっくりあなたに耳を傾けることができますように。それによって、あなたの望まれる実が、私たちという枝を通して豊かに結ばれますように。
 マルタではなく、なくてはならぬものを選んだマリヤのようになれますように

 一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。この女にマリヤという妹がいた が、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主 よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。主は答えて 言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけで ある。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである。(ルカ 十章三八~四二節)

 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに 結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたに とどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。(ヨハネ十五章五、七、八節)

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