祈りの種  

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2022年11月26日

「ひとしずく」ーーひと昔編

大学に入りたての頃、私はその大学の先輩に誘われて、聖書研究部という サークルに入りました。そこで人生の答えである聖書とイエス様を見出しました。それからというもの、とにかく他の学生達にも、その喜びを分け合いたくてたまりませんでした。

 大学二年生となった時には、専門課程の工学部の校舎のある別の市に移りました。残念ながら、その学部には聖書研究会はなかったので、私は一人で聖書研究会を始めることにしました。その頃、私は毎日昼休み時間には大学から抜け出て、一人小川の傍に腰を降ろして、学生達が主を知ることができるようにと祈っていました。しかし、集まったのは二、三人だけでした。それでも感謝なことだったのですが、私の祈りは、あまり聞かれていないように感じていました。

 しかし、今日、ボランティアで来てくれた学生たちに聖書のメッセージを分け合っていた時に、突然、学生の頃のあの祈りを思い出したのです。そして思いました。主はあの頃の私の祈りをまだ覚えていてくださり、 今、こうした形でその祈りに答えてくださっている! と。主よ、感謝します!

 主は、祈りに答えられます。たとえ、すぐには聞かれないように思えても、その祈りを主は忘れる事はなく、何年後、または何十年後に、こうして答えてくださるのです。

  福音の種を蒔くなら、私たちはその実を刈り取ることになります。そして祈りも、種のようで、いつかきっとその実を刈り取ることになるのだと思います。もしかしたら、それはずっと先のことで、自分がこの世を去った後かもしれませんが、それが神の御旨に適ったものであるなら、神の時にそれは必ず成就するのです。

 福音の種と共に、祈りの種を蒔き続ける者となれますように。

わたしたちが、神に対していだいている確信はこうである。すなわち、わたしたちが何事でも、神の御旨にしたがって願い求めるなら、神はそれを聞き入れて下さるということである。そしてわたしたちが願い求めることは、何でも、聞き入れて下さると分かれば、神に願い求めたことはすでに、かなえられたことを知るのである。(第一ヨハネ五章十四、十五節)

少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。(第二コリント九章六節)

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