まことの光を見つめて

八月八日 まことの光を見つめて (二〇一二年八月 ひとしずく九〇六)  昨夕、息子が村の獅子舞の前に、棒使いの演 技をするというので、他の子供たちと一緒に公民館の前の広場に見に行きました。それは、その地域に伝わる伝統的な踊りで、最近は演じる人が少ないからというので、村の人に頼まれて息子が引き受けたものでした。練習時間が短かった割には意外と上手に踊れていたと思います。お盆に帰省した若者たちも多く参加して、とても賑やかでした。...

若い時のくびき

八月七日 若い時のくびき (二〇一二年八月 ひとしずく九〇〇)   自分の子供たちを見ていると、色々と大変な時期を通過している子供たちがいます。その試練を取り除いてあげられたら、という親の同情心が湧きますが、ただ祈り主に委ねるしかない時もあります。 考えてみると私も悩みや問題多き若者でした。 若い時というのは苦悩の多い時期なのかも知れません。「若い」の「若」という漢字は、「苦しい」の「苦」という字に似ていると誰かが言っていましたが、なるほどと思います。...

愛の御霊に委ねて

八月五日 愛の御霊に委ねて (二〇一二年八月 ひとしずく八九七) 主よ、あなたはきっと、これらの人たちを愛おしく思っておられることでしょう。友人のカフェで行われたライブに誘われて、席に座って、それぞれが歌ったり踊ったりするのを見て思っていた。何で、こんなに一人一人が美しく見えるんだろう?皆がハッピーで、自由に歌っている。お互いに愛を伝えたい、友達になろうよ、という気持ちが伝わってくる。みんな素敵だなー。...

結果を見ても見なくても

八月四日 結果を見ても見なくても (二〇一二年八月 ひとしずく八九六)   子供や親、夫や妻、そして友人やその他の誰かにも、一生懸命愛を注ぎ、尽くしているというのに、報われない気持ちになることはありませんか?まるで、自分の努力や忍耐など、これっぽっちも感謝されずに、何の価値もないように感じ、愛に生きることなんて、全く無駄にさえ思えてしまうような時 が。 しかし、私たちが注いだ愛は、決して無駄になることはありません。愛は敗れず、失敗もしま...

愛は力

八月三日 愛は力 (二〇一四年八月 ひとしずく八九五) 人の心は病苦をも忍ぶ、しかし、ひしがれた心に、だれが耐えるだろうか (箴言一八章一四節 新改) どんな時心が、うちひしがれるだろう? 自分が愛されていないように感じる時 また自分が必要としている人が いなくなってしまった時だろうか? 反対に、心に力が与えられるのはどんな 時だろう? それは愛を感じた時 また愛のために生きる時 今日一日、生きる力が湧いてくる 愛することは神様の戒しめだから 人が愛の内にいる時 神様の御心にあって 神様は力と 喜びを与えてくれる...

恐れの怪物

八月二日 恐れの怪物 (二〇一二年八月 ひとしずく八九四)   昨夜夢を見ました。...

脱落して得た勝利

八月一日 脱落して得た勝利 (二〇一二年八月 ひとしずく八九三)  「神の上への道は、下への道」  先日、子どもたちと一緒に山登りをしました。秋田の実家のすぐそばにある山です。標高一五〇〇メートルほどの山で、それほど高いわけではないものの、普段、運動をしていないなら、かなりきついものになりえます。...

電波の届かない所にて

七月三一日 電波の届かない所にて (二〇一六年 ひとしずく二二一五)  昨日から今日にかけて、電波から、いくから解放された場所に行っていました。携帯とメールの使えないところです。 現代の人たちは、こうした電波のない生活というのはほとんど出来ないくらいに、電波依存症になってしまっているかもしれせん。私もそのうちの一人ですが、携帯やコンピューターを繋いでいる電波によらず、主の御霊がもたらす絆と導きのみに依存して生きることができることを理想に思っています。  それを昨夜は少しばかり体験できました。...

神に愛されている人々

七月三十日 神に愛されている人々 (二〇一四年七月 ひとしずく一六〇五) 人を早まって裁いてはいけない どんな経路を辿って 今のその人があるのか 自分はわからないのだから その人のしたことを 悪意にとってはいけない 悪意のように見えても その人は今、何かに 捕らわれているのかもしれない その人の抱えている 悲しみがあり 苦しみがあり 痛みがあるのかもしれないのだから 相手の立場に完全に立てる人など誰もいない どんな境遇で育ち どのような試練を通過してきて どんな傷を受けているか 自分にはわからない 神は愛する者を訓練すると言う...