委ねる

委ねる 本当に「ゆだねる」ということは、 自分の手から離して神様の御手のうちに、置くということです。 祈った後も、心に煩い、悩み、心配があるなら、まだ神の御手に「ゆだねる」ことをしていない状態です。 何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。 (ピリピ4章6-7節)...

霊の激戦地

霊の激戦地 「…そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロ<ペトラス(石/転がる石)>である。そして、わたしはこの岩<ペトラ(大きな岩)=イエス・キリスト>の上にわたしの教会<エクレシア>を建てよう。黄泉の力も<霊媒師などの祈祷によって地上に招かれた霊どもの勢力も含めて>それに打ち勝つことはない。 わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。 (マタイ16章18-19節)...

力は主にある

力は主にある 人生は旅。クリスチャンにとっては、巡礼の旅です。どこに向かっているかというと天にあるふるさとです。主からの任務を果たしつつ歩んでいく荒野の旅です。  信者が聖書の真理に立って、信仰に生きようとする際、この世はそれに対してあらゆる面で立ちはだかってきますので、荒野というのがふさわしいです。荒野は、供給においても、保護においても、また子供を世話し、家族を守るにも、ただ神に頼るしかない困難な場所です。しかし神がおられるなら、そこは祝福の場所となります。...

荒野で…

荒野で… 荒野にいるから、大いなる都がどんなものか見えてくる レールから外れて、はじめてレールの上をがむしゃらに走ることがどんなものか見えてくる 自国から離れて、はじめて自国が見えてくる 村八分にされて、はじめてその村が見えてくる 辱めを負って、はじめてあざける者の座に座らぬ者の幸いを知る 悪霊に悩まされて、はじめて解放の喜びを知る イエスは、 神であられることを捨てて、肉をまとわれた神だから...

悪の霊に対する戦い(エペソ6章12節)

悪の霊に対する戦い(エペソ6章12節)  私たちは、霊の戦いに従事していることになっています。しかし、霊の戦いであるのに、霊の武器を十分ふるっていない時があると思います。主は霊の戦いを通して、その戦いをどのように戦うかを教えておられるのだと思います。戦い方は、戦うことを重ねてしか練達しません。  イエスがゲラサの地で会われた男の人、彼は大勢の悪霊につかれていました。...