御心を行う器となるために

御心を行う器となるために 神の御心は、失われた者に手を伸ばす。自分の命を惜しんでいると、それができない。 パウロは、「生きているのは、もはやわたしではない。キリストがわたしのうちに生きておられる」と言いました。キリストのわざをするにあたり、まだ自分が生きていて、自分のしたいことを求めている自分がそこにいるなら、神の御心を行うことの妨げとなってしまいます。 肉はわきにどかないといけません。 みこころがなりますように、と祈りながら、肉の思いが胡坐をかいて邪魔になってはいけないのです。...

すべての道で主を認める

すべての道で主を認める 今日、遠くからやって来る兄弟姉妹がいます。 こうした土砂が家の前に積み上げられた状態で、迎えることになった聖徒たちとの交わりは、予想も期待もしていませんでしたが、神は御存知です。 私たちは、遠くまで予測がつきませんが、主は守り、災いのように見える中でも、守り、励ましを与え、御心を成し遂げて下さいます。感謝です。 もし、私たちが全てを計画するのだったら、こうしたタイミングでは、決してこのようなアレンジはしなかったと思います。しかし、神様には、良い理由があってなして下さっています。...

主の山に備えあり

主の山に備えあり これらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われた、「アブラハムよ」。彼は言った、「ここにおります」。 神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。 アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。 三日目に、アブラハムは目をあげて、はるかにその場所を見た。...

被災の中の希望

被災の中の希望 昨夜、勝利に酔いしれたキリスト者の集まり(近所のクリスチャンの若者の信仰の旅の報告–あとで分け合うことができるかと思います—この集まりの間中、雷が鳴り稲妻がしょっちゅう光っていました)が終わり、解散して戸を開けると、何と道の上を泥水の激流がありました。短い距離でしたが、歩いていくには大変な流れだったので車に乗って帰ってもらいました。その後、あふれる沢の流れを堰に誘導するため、コンクリートブロックや土砂で流れた石で、道路に流れないようにしていたら、そこに息子がやってきて助けてくれました。...