神の訓練
-「道」シリーズ-
内容
(二〇二五年一月)
癒しについて、妻といろいろと話をしていました。私にとっては、不整脈でかなり弱っていた彼女の心臓が回復してきたことは大きな励ましでした。以前は、彼女が二階まで階段を上ることが難しく、私が背負っていかなければならない時もありました。一時は車椅子を使ったこともあります。二つの大きな病院で検査をしたりしていましたが、心臓のカテーテル検査とペースメーカーを入れる手術はどちらでも勧められていたのです。しかし、そうした状態の妻が今、これほども元気になったのは、ただ神様のご介入としか言いようがありません。
妻は、心臓の状態だけではなく、突然の顔面麻痺も発症し、それは大きな試練でした。顔右半分が全く動かなくなってしまったのです。妻の希望でカテーテル検査などは、この麻痺が良くなってからということになりました。
おそらく、たくさんのストレスが原因だったと思いますが、彼女は当時のことを思い出して、「女性だから、自分の顔がそうなってしまったのが気にならないわけではないし、何よりも他の人が私の顔を見てぎょっとするのが、申し訳なかった。でも自分は忙しくしていたので、鏡を見ていない間は気にならなかった」と言っています。
今は、彼女の顔の神経も癒されてきて、神経のダメージを受けている部分がとても狭い範囲であることがわかります。以前は片目を開けることもできない状態でしたが、今は両目を同時に瞬くことができるようになりました。主は、いやし主です。
普通の女性なら、顔半分が蝋人形のようになってしまったら、きっと生きているのさえ苦にしてしまうかもしれません。しかし、私の妻には、彼女の助けを絶望的に必要としている状況があったので、そのチャレンジにほとんど全ての思いを集中していました。それで忙しくしていたので、自分のことを可哀そうに思う暇もなかったということです。それも主の恵みです。(感謝なことに、今はこの状況も改善されました)。
もちろん、癒しのために、お祈りしましたが、心臓の不整脈、顔の麻痺、それに加えての外部からのチャレンジすべてに時間とエネルギーを消耗していました。
主は時には、なかなか答えて下さらないので、祈っても無駄のように思える時もありますが、後になって、やはりこれでよかったのだ、と思えるのです。
この暗闇とも思える期間、神様は多くのことをしてくださいました。何よりも、彼女は、病の床で神の言葉である聖書を深く読むことができたこと、たくさんの宝を発見できたことを証言しています。私も妻も、暗闇を通過して初めて受けることができたたくさんの祝福があります。主は祈りに応えてくださったのですが、すぐに応えてくださらなくてよかったのが今では理解できます。そうでなかったら、尊い宝を私たちは、得ることができなかったのです。
彼女は、自分の顔かたちが突然変わってしまったけれども、その下には、前と変わらない自分がいることで、人を外見で判断しないことを学んだと語っています。
これは尊い教訓だと思いました。私たちの主イエス様についても、こうした聖書の言葉があります。「彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。」(イザヤ五三章二節後半) 当時の人は、救いに来てくださったメシアを尊ばず、かえって侮り、苦しめたのです。
彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。 (イザヤ五三章三-五節)
主イエス様は、私たちの癒しのため、肉体の癒しだけではなく、根本的な霊の癒し(罪の赦しから来る癒し)のために来られたのに、イエス様は卑しめられ、さげすまれ、最後には十字架につけられました。この方によって全世界の人の罪の赦しの業が成し遂げられたのです。この方による罪のゆるしを信じる者は、すべて赦されるのですが、その愛に触れて、それに応答する人には、新しい人生が始まります。
この世と共に過ぎ去っていく人生ではなく、神と共に永遠に生きる人生への出発となるのです。そして自分のために神様が備えて下さった場所と任務に気づくのです。それは新しい道ですが、この道はイエス様が歩まれた道です。ただこの世の安逸の中に留まっていたり、大多数の人達の流れにただ流され埋もれるという人生ではありません。神様は、一人ひとりが、栄光ある生き方をするように召しておられるのです。そのための御計画の一つが、与えられる試練によって、私たちが造り変えられることであると私は思います。
主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである… すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。 (ヘブル一二章六、一一節)
(ひとしずく三四六)
どうだっただろう?
もし、光だけで闇がなければ。
もし、朝と昼だけで夜がなければ。
もし、春夏秋だけで冬がなければ。
もし、晴れの日だけで、曇りと雨の日がなければ。
私たちはともすると、光や暖かさ、そして安楽だけがあればいいのにと思いがちです。しかし、聖書には、次のような言葉があります。
わたしは光をつくり、また暗きを創造し…(イザヤ章四五章七節)
暗黒を朝に変じ、昼を暗くして夜となし…(アモス五章八節)
神は私たちが望むものばかりではなく、暗きを創造し、寒さに震える冬や、雨や曇りの日も創られたのです。そして、万物の創造主であられる神は、試練や苦難をも与えられたのではないでしょうか?愛である神様がこれらのものをも創られたとしたら、闇と思える病気や苦難は、何か良い目的があって与えられたのに違いありません。
神様からの最高の贈り物は、しばしば暗闇の中に隠されています。ちょうど生命が、暗い胎内の中で始まり育まれるように、人の魂における変化や新しい始まりも、一見、闇と見える中で始まります。そして神様は、耐えられないほどに辛く思えるその闇の中でこそ、私たちの魂を大きく成長させてくださるのです。
だから、光だけでなく闇があって
だから、朝と昼だけでなく夜があって
だから、春夏秋だけでなく冬があって、
だから、晴れの日だけでなく、雨や曇りの日があって、・・・ それですべて良いのです。
…わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに…栄光が世々限りなくあるように…(エペソ三章二〇、二一節)
(二〇一一年一月 ひとしずく三一八)
長男の息子夫婦が久しぶりに遊びに来てくれました。しかし息子は来る途中で、激しいお腹の痛みと吐き気に襲われ、運転もできなくなり、息子の奥さんが代わりに運転してやって来たのでした。遠くから来たので、引き返すこともできなかったようです。
息子には私の部屋を提供しました。彼はみんなに病気を移したくないからと言って、部屋からあまり出ませんでした。また動く力もなかったのでしょう。その後二日もすると、彼は元気になりましたが、今度は妻や子供たち、そして私にもその病気が移ってしまいました。昨夜は私もかなり大変でした。何度も吐いたので、洗面所でほとんど一晩過ごしました。
こんな時には、普段あまり考えないようなことが頭に浮かんできます。先日、会った新宿のホームレスの人たちのことを思い出しました。私はたとえ病気になっても、暖かい部屋で休み、治るのを待つことができるけれど、ホームレスの人たちがこんな病気になったら、どんなに大変だろうな ・・・と。また苦しみの中で、自分の魂を吟味することもできました。普段、健康で何事もないと、自分はうまくやっていると思いがちなので、こうして苦しい思いをすると、自分がいつもどれほど主からの恵みや保護を受けているのかに気づきます。こうしたことに気づかせてもらえるのも、主の愛の表れなのだと思いました。翌日は、息子家族が帰る日を迎えました。息子は、昨晩、私がほとんど眠れなかったのを知って、とてもすまなそうに、「ごめんね」を連発していました。そんな息子に私は言いました。「大丈夫、これはイエス様からのプレゼントだから」と。これは息子への慰めで言ったのではなく、心からそう思って言ったのです。
私は、貴重な時間を過ごすことができました。普段、この息子たちとは離れて暮らしているので、あまり思いやりを示すことができませんが、今回はお互いが病気になり、励ましたり、祈ったり、ちょっとした思いやりを示し合うことができました。お互い元気だったらできないことでした。また主は、この苦しみの中で私と共にいて下さり、様々なことを思い起こさせたり、気づかせて下さいました。
私は主に感謝するため、力ない手ではありましたが、できる限りの力を振り絞って、手を上げ、主を賛美しました。 雪と病気で、ほとんどの時間を家の中で過ごす年末年始となりましたが、普段味わうことのできない、最高のひと時を持たせて頂きました。主は、謙遜と弱さと愛と祈りの、素晴らしい新年のスタートを私たち家族に与えてくださったのです。
苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。 (詩篇一一九章七一節)
(二〇一三年一二月 ひとしずく一四〇七)
一番上の息子は、バスケットボールをしていた時、足を挫いてしまって、今、松葉杖を使って歩いています。来年になって手術をする必要があるということでした。
彼は、「スローダウンするしかなくなった。こういうことでも起らないと、たくさん例年通 りしたいこと、すべきことがあって、それらをこなすのに忙しくしていたと思うけど、今は選択肢がなくて、ただ何でもスローにしていなければならないんだ」と言っていました。
何かの理由で神様は、息子にこうした困難な時期を通過させるのを良しとされたのでしょう。
私たちには多くの計画があります。しなければならないこと、したいことはいつもあります。そして、自分の思い通りに物事を進めていこうという計画があります。
しかし、人生は突然、予想もしていなかったことが起るのです。
何でも自分の思い通りに自由にできるというわけではないことに遭遇するのです。というか、 私たちの道の真ん中に避けて通れないもの、無視できないものが置かれるのです。
神様は、私たちに選択肢を与えられ、私たちが自分のよしと思う道に進むのをできる限り寛 容をもって見守ってくださっていると思います。しかし、何かの理由で、神様は私たちの思い通りに進むことが最善ではないと思われる時があるようです。そして神様は、私たちが避けて通れない障害物のようなものを目の前に置かれます。私たちはそのやっかいなものに見えるものを人生に受け入れて進まなければならない時があるのです。
しかし、神様がそのようになることを許されたのであれば、それは、非常に良い理由があってのことだと思います。
最近、ちょうど娘と、自分達が引っ越さなければならなかった時のことを思い出して、話していました。それは、私たちが千葉の市川にいた時のことです。慣れ親しんだその地から引越しをしなければなりませんでした。引越しは、 大家族の私たちにとっては大変なことでした。しかし、引っ越した家の近くには、何と、当時子供たちが夢中になって遊んでいたローラースケートができる無料のリンクがあったのです。また子供たちが遊べる遊具のある公園もすぐ家の前にありました。 私たちはその環境に溢れる恵みを楽しませて頂きました。
しかし、そんなにも気に入っていた所でしたが、神様が一つづつその良きものを取り去る時が来たのです。その家に移ってから4年くらい経った頃だったでしょうか。初めに、家にネズミとゴキブリが出始めました。裏の家の解体工事のためだったかと思いますが、いくらそれら退治をしても追いつかない状態で悪化するばかりでした。
その頃から次々と変化が起こり始めました。ローラースケートの公園には錠がかかるようになりました。特別な許可をもらわないと使えなくなったのです。これは大きな変化でした。それから車で時々訪れていた無料駐車場のある公園が、有料駐車場の公園と化しました。そして最後には、私たちの家の前の公園の半分以上が、駐車場になるとのことで工事中となり、公園は使えなくなったのです。
これらは皆、考えてもいなかったことで、少しがっかりしましたが、主は私たちに、変化の時であることを示しておられたのです。私たちからその場所を取り去るのが神様の御意志であり、他の地に引越しする事を導いておられたのです。そして神様は、そこにもっと良いものを私たちのために用意しておられまし た。
今までの場所での私たちの仕事が終わり、また子供たちの成長のためにも、神様は新しい変化を起こされたのです。
人生には、思ってもみなかったことが多々起こります。災難にしか見えないような状況に置かれる事もあります。しかし、それは神様が、私たちをもっと良い所へと導くための手段として用いておられたり、あるいは、それによって私たちの心と霊をもっと成長させ、神様が用いたい器に造り変えられるためにそうされているのです。
旧約聖書に出てくるダビデの生涯は、困難と苦しみ、試みで満ちていました。自分の仕えている王サウルが、嫉妬に狂って自分を殺そうとしたのです。そして彼に追い回される時がずっと続いたのです。サウルが死んで、ダビデが王となった時、自分の息子に王座を奪われそうになったこともありました。
きっとダビデは、初めはたじろいでしまったことでしょう。しかし、彼はこの全てを通して、成長を遂げ、新しい人に造りかえられていきました。その結果、神への揺るがない信頼の心を持つ人となっていったのです。
以下はダビデが、サウルに追われ、敵の王のもとに隠れようとしたけれども、敵の王の部下にも、狂人をよそおい、窮地から脱した時にうたった歌です。
わたしは常に主をほめまつる。そのさんびはわたしの口に絶えない。
わが魂は主によって誇る。苦しむ者はこれを聞いて喜ぶであろう。
…わたしが主に求めたとき、主はわたしに答え、すべての恐れからわたしを助け出された。
…この苦しむ者が呼ばわったとき、主は聞いて、すべての悩みから救 い出された。
主の使は主を恐れる者のまわりに陣をしいて彼らを助けられる。(詩篇三四篇一-七節)
(二〇一一年一月 ひとしずく三二六)
昨日、「パパ、見て」と中三になる息子が私のところにやってきました。彼が大工仕事を手伝ってくれた時、間違って自分の親指を金槌で打ってしまい、しばらく爪の下に血豆ができていたのですが、その爪が取れた親指を見せに来たのでした。
見ると親指には、新しくかわいい爪が生えてきていました。ちょうど春に新しい植物の芽が出るかのように。息子と私はそれを見て感動しました。
この怪我によって彼には学ぶべき教訓がありました。彼にそれを尋ねると、もっと注意深くなるべきだったし、他のことでイライラしながら仕事をしていたなど、怪我をする原因がいくつかあったことを私に話してくれました。その事故は、彼のお兄ちゃんと一緒にやっていた時でしたが、私ももっと安全に関する指示を与えているべきだったかもしれません。とにかく、こうしたことが起こる時には、いろいろ心を探らされます。
初め、私が彼にこの怪我を通して学んだ教訓を尋ねた時、彼は私に何か言われると思ったようです。しかし私はただ彼が学んだことについて知りたいだけでした。そして彼からそれを教えてもらって、思わず微笑んでしまいました。彼はそうした怪我をしなかったなら、学び得ない教訓を学び、また謙遜さも学んだのです。通過しなければならなかった痛みについては、かわいそうに思うものの、彼がさらに大切な教訓を学び、一回り成長したことは、親としてやはり嬉しいのです。
聖書には「わたしは…傷つけ、いやす」( 申命記三二章三九節)という言葉がありますが、主は痛みや必死にさせることを通して、私たちを主に近づけさせてくださいます。そしてたとえ主が私たちを戒められ、また罪を清めるために苦しみを通過するのを許されたとしても、主は私たちが、塵から造られた者であることを知っておられ、憐れみを下さるのです。
だから、試練にあった時、傷ついたり失ってしまったことにではなく、それによって自分がまた一歩、謙遜になり成長できたこと、また主に近くなれたことに目を向け、感謝すべきなのです。私たちが受けた傷はやがて主が癒してくださるでしょう。
そして主は、また一つ成長した私たちをごらんになって、優しく微笑んで喜んでくださることでしょう。
その日あなたは言う、『主よ、わたしはあなたに感謝します。あなたは、さきにわたしにむかって怒られたが、その怒りはやんで、わたしを慰められたからです。 見よ、神はわが救である。わたしは信頼して恐れることはない。主なる神はわが力、わが歌であり、わが救となられたからである』。(イザヤ一二章一、二節)
今年は秋田で、母や子供たちと畑で野菜作りをしています。植物を世話しているといろいろなことを学びます。野菜にもよりますが、ほとんどの野菜は水をたっぷり与えたら、何日間は水をあげない方が良いようです。きっと表面付近の土が乾くと、根は水を求めて、さらに地深く伸びるのでしょう。そして、植物にとってのその乾きという試練が功を奏して、しっかりと土中に根を張り、台風などの嵐にも耐えられるほどに強く成長するのです。
反対に、水をいつもふんだんに与えられるなら、植物は土中深くに根を張るという努力をする必要もありません。そして根腐れしたり、また浮き草のように水をたっぷり浸かった状態では、外部からの力に負けて、根が浮かび上がって倒れてしまいます。
こうしたことを考えると、時には渇きといったいくらかの試練というものが、植物には必要だとわかります。時々、暑い日ざしに耐えている植物を見ると、かわいそうにも思え、このままだめになってしまうのではないかと思いますが、そういう時こそ、植物の根は成長しているのです。そして何より、嵐にも生き延びられるよう、強く成長する最大の目的とは、花を咲かせ、実を結ぶためなのです。
このように神様が送られる試練には、たくさんの知恵が込められています。そして、私たちの人生における試練にも同じことが言えるのではないかと思います。試練は私たちに人生について考えさせ、主を求め必死にさせてくれます。その必死に主を求める思いに主は応えてくださり、そのことによって私たちは信仰を強められ、成長させていただくのです。
わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。その上、肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか。肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。 すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。 (ヘブル一二章五~一一節)
(二〇一一年一月 ひとしずく三四二)
様々な試練と戦っている人たちのことを思い、どうして、私たちはたった一人で、大きな試練に向かい合わなければならないのだろう?と考えていました。
友達や仲間といつも同じ試練を同時に味わうことができたなら、どんなに苦痛が軽減されるだろうか、またその試練をその人に代わって受けることができるのなら、どんなにか良いだろう、と思う時があります。しかし、ほとんどの場合はそうはいかないのです。
病の苦痛を受けるのも一人
死に対面するのも一人
自分の進路を選択するのも一人
プレッシャーを背負い、受験勉強をするのも一人
愛する人や仲間がいても、人生において出会ういくつもの試練や戦いは、一人で対面しなければならないのです。愛する仲間は、祈り、助言を与え、励ましたり応援してくれたりしますが、それらの人たちが、代わりに手術台に乗ったり、痛みや苦しみを受けたり、試験を受けるわけにはいかないのです。
自分を愛するように隣人を愛しなさい。あるいは兄弟のために命を捨てなさいとまで言われている主が、私たちが一人でこういった試練に対面し、苦しむのを許されるのはなぜでしょう?
私は思いました。それはもしかしたら、主が私たちに個人的な愛を示されたいからなのかも知れないと。主は私たち一人一人を単なる僕として、主の御心を果たすために働いてくれたらそれで良く、私たちの苦しみなどには興味を持たれない、というわけではないと。
そうではなく、主は、私たちが主にとって、どれだけ愛しい存在であるか、またどれだけ細やかに気遣っているのか、それをわかってほしいのだと思うのです。そして、私たちがたった一人で、孤独の内に試練の道を歩む時、主はその絶好の機会を持たれるのでしょう。
主は、その尊い愛を示されるために、私たちがまるで死の谷の陰を歩んでいるような、苦しみと孤独を味わうことを許されますが、そこで私たちはまた、主と個人的に出会い、私たちをこんなにも気遣い、深く愛してくださっている主の優しい御顔を仰ぐ時を持つのです。
魂の苦しみを知るのは自分の心。その喜びにも他人はあずからない(箴言一四章一〇節)
たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。(詩篇二三章四節)
呼びかけるのを待っておられる主 (二〇一一年一月 ひとしずく三四三)
疲れているのですか?
休ませて下さる主がおられます。
道が見えないのですか?
道であられる主がおられます。
癒しが必要なのですか?
癒す方である主がおられます。
世の全てを試みて、ただ神のみ元に帰りたいのですか?
門で迎えて下さる主がおられます。
罪の意識に苦しんでいるのですか?
全ての罪を赦して下さる主がおられます。
生きる喜びを失ったのですか?
慰めに満ちた主がおられます。
一緒に歩いてくれる人がいないのですか?
決して離れず見捨てることのない主がおられます。
思いが混乱し、何もできないのですか?
あなたを抱き上げて運んで下さる主がおられます。
主はいつでも、あなたが主の名を呼ぶのを待っておられます。
その主の名は「イエス・キリスト」
主の御名を呼び求める者は、すべて救われる(ローマ一〇章一三節)
すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。(マタイ一一章二八節)
イエスは・・・深くあわれんで・・・病人たちをおいやしになった。(マタイ一四章一四節)
イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。(ルカ七章四八節)
イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ一四章六節)
主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。(ヘブル一三章五節)
悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。 (マタイ五章四節)
(二〇一一年一月 ひとしずく三三〇)
何気なく置かれてあったパンフレットを見ると、「シニアの方は半額です!」という文句が興味を引きました。そしてなんとそのシニアなる年齢層に自分の歳が含められていたのです。シニアの特権に私も与れる歳になったのかと、なんだか少し複雑な気持ちになりました。しかし、さっき散歩をしていた時、道端に溜まっていた落ち葉を見て、思い出していた励ましの話があります。
以前、その散歩道の脇の林で、老夫婦が二人で落ち葉をかき集めていたことがありました。私が「その落ち葉をどうするのですか?」と尋ねると、「冬の間に牛の赤ちゃんが生まれるから、その赤ちゃんの寝床に敷くんだ。落ち葉は暖かいから」ということでした。
その時、私は思いました。
「そうだ・・・それは青々とした葉っぱにはできないことだな・・・」と。
太陽の光をいっぱい受け、必要な栄養を作り出したり、生き生きとした緑で辺りを美しく飾ることは、若い葉っぱにできます。しかし、生まれてくる子牛のために、寝心地の良いクッションとなり、寒くないように体を暖めるのは、枯れた落ち葉にしかできないことです。地面に落ちてひからびて、かき集められた後は、燃やされるだけの落ち葉だと思っていましたが、そんな素晴らしい活躍の機会があることを知って、何だか嬉しくなりました。
枯れ葉にとってみたら、生まれてくる赤ちゃんの子牛を暖める役割なんて、すごい特権だと思うことでしょう。木の枝にくっついていた時には、決して思いつきもしなかった栄誉ある使命なのです。
私たち人間にも、それぞれの使命があります。そしてさらに、若い時には若い時の、歳を取ったら歳を取った時の、その時々の使命があるのです。たくさん歳を重ねて、前と同じことができなくなっても、主はそんな私たちを、今まで思いもよらなかった栄誉あることに使ってくださることができるのです。生きている限り、恵みといつくしみを与えて下さる主に感謝します。
( ダビデの歌) 主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。 主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。 主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。 たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。 あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。 わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。 (詩篇二三篇六節)
(二〇一五年八月 ひとしずく一九九五)
先日、旅先で一人寝ていた時、夜中に 急に目を覚ましました。何か霊のうちに起きなければと感じました。疲れていて目を閉じてそのまま横になっていたいとも思いましたが、やは り何か、起きなければという衝動に駆られ、起きることにしました。するとすぐに携帯が鳴りました。妻からでした。時刻は午前3時半、こんな時間に何事だろうと思い電話に出ると、妻は、「パパ、祈って。Y(娘)がお腹痛くてうなっているの。 救急車を呼ばなきゃならないかな?私の母は卵巣が破裂したことあるから…」と、明らかに心配と不安でいっぱいの様子でした。私は、携帯をスピーカーモードにして、「じゃ、とにかく祈ろう」と一緒に祈ることにしました。
主が、私を起こされたのは、このためだったのだと、すぐにわかりました。
私は完全に主が癒して下さるという信仰がありました。そうでなければ、主は私をこの電話の直前に起こされることはなかっただろうからです。
それで私達は電話で一緒に祈りました。妻は娘の体に手を置いているようでした。
「イエスの御名によってこの痛みをもたらしている悪霊を制する。引き下がれサタン!『悪魔に立ち向かいなさい、そうすれば 彼はあなたがたから逃げ去る』(ヤコブ四章七節)と聖書にある。だからイエス・キリストの名前によってお前に立ち向かう!Yから離れされ!主イエスよ、あなたは『わたしは主で あってあなたを癒す者である』と言われました。ですからどうか彼女を癒してください。私達三人で心合せて祈ります。天の鍵の力を求めます。地上で心合せて、Yに痛みをもたらしている悪霊を縛る。イエス・キリストの御名によって祈ります!・・・」と一心に祈りました。
朝になると、妻からの電話で、その夜は祈り終えてから五分後くらいに娘の腹痛は全く無くなり、休むことができたということを聞きました。主は、祈りに応えられます。
私達は、様々な困難に直面しますが、祈るなら、主はそれを乗り越える力と恵みを私達に与えてくださいます。今、病や痛みで苦しんでいる人たちがいたら、どうか信仰の兄弟姉妹にお願いして祈ってもらってください。あるいは私たちにご連絡下さい。お祈りします。
わたしは主であって、あなたをいやすものである。(出エジプト一五章二六節後半)
イエス・キリストは、きのうも、 きょうも、いつまでも変ることがない。(ヘブル一三章八節)
悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。(ヤコブ四章七節後半)
わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。そして、わたしたちが願い求めることは、なんでも聞きいれて下さるとわかれば、神に願い求めたことはすでにかなえられたことを、知るのである。 (第一ヨハネ五章一四、一五節)
信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。だから、互に罪を告白し合い、ま た、いやされるようにお互のために祈りなさい。義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである。 (ヤコブ五章一五、一六節)
あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう(マタイ一六章一九節)
≪天国の鍵の力は、教皇だけではなく、イエス・キリストを信じる信者、すべての者に与えられている–マルチン・ルター≫
よく言っておく。あなたがたが地上 でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。また、よく言っておく。もしあなたがた のうちのふたりが、どんな願い事についても地上で 心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。(マタイ一八章一八、一九節)
(二〇一五年四月 ひとしずく一八九三)
(Pさんの証し)私の子供たちは、小さい頃から聖書について学び、イエス様の愛を他の人達に伝える環境の中で育ちました。しかし大人になると別の道、自分の道を進み始めました。親にとって、子供たちがイエス様から離れることは、とても悲しく、また辛いことでした。でも必死に祈ると、イエス様は、子供たちがどこにいようと、決して彼らを離れず彼らを見捨てない、しっかりと導き続ける、と励まして下さいました。私は子供たちのために、毎日必死に祈り、又良いコミュニケーションをとることにも必死でした。そして、これはその祈りの答え、奇跡のテステモニーです。
三番目の娘が何年か前から手が震え、目が飛び出したように大きくなってきました。その上小さい頃からアトピーで悩まされてきましたが、特に首から上が見苦しいほど赤くなり、又かゆみでよく眠れなくなりました。それで去年の十一月に検査をしたところ、バセドー氏病が進んでいるとのこと、また甲状腺の癌だと言われました。娘も私もパニックと恐れ、 そして絶望に覆われました。そして私は今までにないほど必死に祈り、また、友人たちにも祈りを求めました。そして、娘の命は主に委ねることにしました。また娘も、絶望の中で、ずっと離れていたイエス様を求め始めるようになりました。
ある朝娘は、「ママ、イエス様が癒してくださるとはっきり言った」と言いました。その時の表情は、今までとは全く別人のようで、明るく、そして落ち着いて主を信頼している顔でした。その時の私の嬉しさは、とても言葉に言い表すことはできません。そしてその日から、私たちは毎朝、一緒に祈るようになったのです。また、娘は御言葉も読み始め、「すごい励まされる。絶対にイエス様は癒してくださる!」と言って、もっと信仰が増してきたようでした。また娘は、それまではジャンクフードが好きで、あまり健康的なものを食べていなかったのですが、玄米、野菜、全粒紛のパンなど、食べ物にも気をつけるようになりました。それもおいしそうに喜んで食べるのです。そして暫くして、病院に検査に行くと、なんと甲状腺の癌の問題はないと言われたのです。
私たちは大喜びで、二人でお祝いをし、沢山主をほめたたえました。そしてバセドー氏病もだんだんと良くなり、目も今は普通に戻りました。手の震えはまだ少し残っていますが、前とは比べ物にならないほど良くなりました。また、冬の間は特に肩から上のアトピーが見苦しいほどに真っ赤で、外出する時は、それを隠すためにサングラスとマスクをつけていたほどだったのですが、そのアトピーも、なんと一週間前に急に良くなり普通に戻ってきたのです。それが癒された朝は嬉しくて、私たちは思い切り賛美と感謝の祈りをしました。
今も私たちは、毎朝、色々な事を祈ります。そして本当にイエス様はすごいね、と主に沢山感謝しています。イエス様は今も生きておられます。そして私たちの必死の祈りを喜んで聞かれ、必ず祈りに答えて下さいます。こんなにも素晴らしいイエス様。私の心はイエス様への賛美と感謝で溢れます。全ての栄光をイエス様に捧げます。
また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官がいた。 ところが、その同じ町にひとりのやもめがいて、彼のもとにたびたびきて、『どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください』と願いつづけた。 彼はしばらくの間きき入れないでいたが、そののち、心のうちで考えた、『わたしは神をも恐れず、人を人とも思わないが、 このやもめがわたしに面倒をかけるから、彼女のためになる裁判をしてやろう。そうしたら、絶えずやってきてわたしを悩ますことがなくなるだろう』」。 そこで主は言われた、「この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。 まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。 (ルカ一八章一-七節)
(二〇一二年五月 ひとしずく八一六)
信仰があれば、不可能を可能にします。今まで、いくつもの奇跡を目撃したことがありますし、またそうした人の証しもたくさん聞いたこともあります。私は奇跡は確かに起ると信じます。
しかし、どんなに信仰があっても、この地上での救出の奇跡が起こらないこともあります。・・・たとえば、病の場合、信仰の祈りによって全てが癒されるでしょうか?新しい天と新しい地において、地上の全ての悲しみと叫びと痛みが無くなるのです。その描写が黙示録の最後の部分に記されています。
また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。 (黙示録二一章二-四節)
都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。 (黙示録二二章二節)
ですから、ある病の完全な癒し、また地上の全ての病の癒しは、天国が来るまで待つ必要があります。このことにも神の知恵ある御計画があります。
聖書には、奇跡によって救出された数多くのことが記されていますが、しかし、そうでない場合もまた記されています。信仰によって現状を耐え忍ぶ場合があり、それもまた真の信仰の現れです。ヘブル十一章は信仰の書として知られています。その前半にはノア、アブラハム、モーセなどの信仰による奇跡的な主の業が記されています。しかし、この同じ十一章の後半を見てみると、様々な苦難に遭った人たちのことが書かれています。彼らもやはり信仰の人たちでした。
このほか、何を言おうか。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル及び預言者たちについて語り出すなら、時間が足りないであろう。彼らは信仰によって、国々を征服し、義を行い、約束のものを受け、ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、つるぎの刃をのがれ、弱いものは強くされ、戦いの勇者となり、他国の軍を退かせた。女たちは、その死者たちをよみがえらさせてもらった。ほかの者は、更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった。なおほかの者たちは、あざけられ、むち打たれ、しばり上げられ、投獄されるほどのめに会った。あるいは、石で打たれ、さいなまれ、のこぎりで引かれ、つるぎで切り殺され、羊の皮や、やぎの皮を着て歩きまわり、無一物になり、悩まされ、苦しめられ、(この世は彼らの住む所ではなかった)、荒野と山の中と岩の穴と土の穴とを、さまよい続けた。さて、これらの人々はみな、信仰によってあかしされたが、約束のものは受けなかった。(ヘブル十一章三二-三九節)
この後半の部分を見ると、明らかに普通の人の目には「信仰を持っているのにこんな苦しみに遭い、御利益にも預かれない・・・なぜ?」と映る事でしょう。
しかしそれは、ある場合は奇跡的な救出があり、癒されたり問題が解決されることが神の御心であるかもしれませんが、そうでない場合もあるということです。
というのも、ある人は、華々しい神様の奇跡的な力を現すために召されているかもしれませんが、ある人は、逆境の中に忍耐や賛美の花を咲かせるように召されている場合もあるからです。
殉教した人たちの多くが、そのひどい迫害にも拘わらず、賛美しながら天に召されたことが伝えられています。神様が地上にその人たちを送られたのは、そのようにして神様の栄光を現すためだったのだろうと思います。
またパウロの場合があります。彼は、自分の肉体において何かの問題を抱えていて、これを彼は「肉体のとげ」と呼んでいて、神に祈り、それを取り除いてくださるように、三度も祈ったとあります。しかし、パウロに対する神様の御計画は、その肉体のとげを取り去ることではありませんでした。少なくとも、その時は。
そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。 このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。 (第二コリント一二章七-九節)
ですから、すぐに癒されなかったり、悪魔に付きまとわれているからと言って、呪われているとか、信仰が弱いとか、信仰が無いというわけではありません。
天国では、全ての試練、困難の意味、どうして病を通過し、なかなか癒されない理由というのも明らかになることでしょう。
しかし、だからといって、今、苦しみの最中にいる人に、この苦しみは天国に行くまで取り去られないのだと思ってがっかりしてほしくはありません。もし、それらの苦しみを通過することが、主の御意思であるのなら、主はそのための恵みと慈しみと助けとを必ず十分に与えて下さるに違いないからです。私たちが弱い時、主は私たちを支えて下さると約束しておられるのですから。
「浜辺の足跡」という詩があります。苦難の中で、自分がイエス様からも見放され、全く一人孤独にその苦難の中に取り残されたように感じる時こそ、イエス様があなたを抱きかかえて歩いてくださっているという詩です。苦難の中にある時こそ、主はあなたの最も近くにいてくださるのです。どうか、そのイエス様の御腕の中で、賛美して、主の栄光を現すことができますように。
それは、癒され、苦難から救出される以上の奇跡なのです。
(※)
浜辺の足跡
(マーガレット パワーズ 著 訳 中野裕弓)
ある日私は夢を見ました。
浜辺を神とともに歩いている夢を。
海の向こうの大空に、私の今までの
人生の光景がはっきりと写し出され
どの光景の前にも、浜辺を歩いている
神と私の二組の足跡がありました。
最後の光景までに振り返ってみると
ところどころ足跡が一つしかないことに
気づきました。
そして、それはいつも私が苦境に落ちて
悲しみに打ちひしがれているときでした。
私はあえて神に尋ねました。
「私があなたについていくと言ったとき
いつも私のそばにいて下さると約束されたのに
どうして私が一番必要としているときに
私を見放されたのですか?」
神は答えておっしゃいました。
「私の大切な愛しい人よ。
私は決してあなたのそばを離れたことはない。
あなたが見た一つの足跡
それは苦しみや悲しみに傷ついたあなたを
そっと抱き上げて歩いた私の足跡なのだ」と。
(二〇一三年三月 ひとしずく一一二四)
親子の関係であれ、夫婦の関係であれ、友人関係であれ、一緒の時間があまり無くなってしまったり、一緒にいてもあまり深い会話がなされなくなったりということは、あまり良い兆候とは言えません。そして、同じことが神様と私たちとの間にも言えるのではないかと思います。会話のない神様と私たちとの関係というのは、祈りのない関係と言えるのではないでしょうか。
主は、「わたしに呼び求めよ。そうすればわたしはあなたに答える」(エレミヤ三三章三節)
と言っておられます。主は私たちの祈りに答えたいと思っておられ、私たちとの関係を築きたいと思っておられます。主は私たちが主に呼び求める事を待っておられるのです。しかし悲しいことに私たちは、簡単に祈りのない生活に陥ってしまいます。それはなぜでしょう? 自分の主との関係を評価するために、祈りの生活についての反省は良い指標となると思います。
聖書に次のような言葉があります。
そこでわたしはあなたがたに言う。
求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。
あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る 者に聖霊を下さらないことがあろうか。
(ルカ一一章九節-一三節))
主は、求めるなら必ず与えられると約束しておられます。しかし、何度も主に祈り求め ても、受け取るのは、自分が願ったものとは異なるものであることが時々あります。
癒してほしいとか、供給してほしい、とか事態を改善してほしいと求めているのに、一向に神様が聞いて下さらない、それどころ、事態が悪化しているかのように見える時があるのです。それこそ「パン」や「魚」や「卵」を求めたのに、「石」や「サソリ」や「蛇」が与えられたかのように思える時が。そういった経験によって私たちは、結局祈りは聞かれないのだという結論に行ってしまい、祈りに対する信仰も薄れ、祈らなくなってしまうのかも知れません。
しかし、主は、「あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。(そんな意地悪なことはしない)、悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をするではないか」と言っておられるので す。
では、どうして私たちの祈り求めたものが与えられないのでしょう?
「天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」という言葉にその答えがあるように思えます。
主は、確かに祈りに答えて下さいます。私自身、自分の信仰生活において、主がどれほど、祈りに答えてきて下さったか、数え上げることができないほど多いです。中には、とても奇跡的なものもあります。主は、祈りに答えられる方だと確信があります。
しかし、必ずしも、私が願った通りの答えではない時も何度もありました。救い出してほしいと必死に祈ったにも拘わらず、同じ状況が長く続いたり、また癒しがなされなかったり、子供の苦しい状況についても、主が状況に対して目を閉じ、祈りに対して耳を閉じているように思える時があります。
しかし、振り返ると、祈りが即座に私の願った通りに叶えられていたら、尊いものを 受け取ることを逃すことになっていたのではないかと思える場合がいくつもあります。
その尊いものは、聖霊による慰めであり、また聖霊によって示される真理、聖霊による愛の力と進むべき道を示してくれる導きや知恵ではなかったかと思います。
この神様の御霊が私の心を慰めに来られ、神様ご自身が教えられるという特権に与る機 会は他の何にも増して得難いものです。もし、私の願った通りに神様が答えられていたら、私はそうした特権を逃していたことでしょう。
ですから、ここで主がお語りになりたかったのは、「祈りが答えられないことがあろうか?私はあなたの嘆願を聞いて、かえって意地悪して答えなかったり、別のものを与えてあなたを苦しめようとしているのではない。あなたの願っているものよりも遥かに良いもの、あなたに必要なものを与えている。それは聖霊だよ。」ということではないかと思うのです。
自分の願い通りにならなかったとしても、主には私たちの思いを遥かに超えた素晴らしい御計画があるのであり、必ず主は、私たちが祈り求めた以上の良いもの―聖霊、つまり神の御霊、神様ご自身を与えて下さるのです。
(二〇一二年二月 ひとしずく七二二)
「今度の風邪はなかなかぬけないね」洟をかんでいる母親に言うと「本当にそうだね。」と母は答えました。私も彼女の隣りに座りながら、テーブルの上に置かれているティッシュの箱から一枚引っ張り出して、洟をかみました。私は風邪をひいてもう二週間になります。
私は、どうしようかと迷っていました。秋田に滞在している間に、岩手の被災地に行きたかったのです。いや、行くのが主の御心だとわかっていたのですが、問題はいつ行くかということでした。風邪をひいてしまったので、それが延ばし延ばしになり、気がつけば、もう東京に行く日が近づいてきていました。
しかし、祈りの掲示板に掲載して皆さんに祈っていただき大分元気になったのですが、咳がなかなか抜けないのです。
私は、治ってから行ったら良いのか、治らなくても行くべきなのかの、決断に迫られていました。また、雪が多いので、置いて行かなければならい家族のことも気がかりでした。そして、祈っていた時、次のような言葉を受け取ったのでした。
「わたしは時に応じて力を与えるではないか?大勢の者たちが『行ったら、いやされた』(ルカ一七章一四節)を体験した。だからあなたも行きなさい。また、わたしはあなたがこれらの家族を見守り、世話するのを見た。わたしに任せなさい。わたしが彼らを世話するから。 あなたが永遠と、霊にフォーカスする時、つまり、あなたがわたしを第一に置く時、わたしは、決してあなたを離れずあなたを捨てない。あなたも、そしてあなたの家族も世話する。 それは聖霊の願いであり、私の心の願いだ。あなたは魂は永遠ということをどれだけ信じているか?
そして、地上に宝を積むのではなく、天に宝を積むということがどういうことか、知っているか?それはあなたの時間と労力を天国のため使うということだ。蒔く者がいなくて、どうして、信じる者が生まれるだろうか? 光を灯す者がいなくて、どうして闇に座する者が光を得るだろうか? あなたの福音伝道を私が祝福しないことがあるだろうか?行きなさい。そうしたら、私はあなたと共に行こう。」
というわけで、私は岩手に行く決断をしたのでした。そして、再度祈りの掲示板に祈りのリクエストを出し、皆さんにお祈りしていただきました。するとその後、たちまちのうちに気分がよくなり、咳も殆どしなくなりました。 夜、トイレに起きた時、窓を開けてみると、月が綺麗に輝いていました。主からの確証のように思えました。
「・・・彼らは行く途中でいやされた。」(ルカ一七章一四節)
(二〇一四年五月 ひとしずく一五四四)
聖書を見ると、主が為された数々の癒しの奇跡と共に、主の助けを必要としている人たちに主の語られた言葉が記されています。その中でも、苦難の中で戦っている人にとって、何よりも励ましになる言葉がこれではないかと思います。
イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。
弟子たちはイエスに尋ねて言った、『先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか』。
イエスは答えられた、『本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。』(ヨハネ九章一-三節)
その盲人が何歳であったかはわかりませんが、右記の聖書箇所のすぐ後に「あれは大人ですから」とその盲人の両親が言っているので、生まれた時から少なくても相当の年月、目が見えなかったのです。その生まれながらにして目の見えなかった理由として、イエス様は「神のみわざが、彼の上に現れるためである」と言われました。
生まれつき彼は障害を負っていたわけですが、当時それは、弟子たちが イエス様に質問したように、本人かまたは親が罪を犯したためと考えられていたようです。しかし、イエス様はきっぱりと言いました。それは彼の罪でも両親の罪のためでもなく、ただ神のわざが現れるため、つまり、神様の御意志、御計画がそこにあると言われたのです。
時々、どうしてそんなにも辛い苦難をこの人は負っているのだろうと、 思える時があります。人は何とかその理由づけをするために、弟子たちがそう考えたように、本人かまたはその先祖の何かの報いを受けているのではないか、あるいは亡くなった先祖があの世で苦しんでいるのではないか、と考えてしまいがちですが、今、愛である神を知る私たちにとっては、どう見ても、それは神様からの仕打ちではないのです。実際、神様がその苦難を許されたのは、神様の業が現れるためなのです。これは、絶望の暗闇に突然光が差しこんでくるような、とても大きな励ましであり、希望だと思います。
神様がその人を使ってご自身の業をなさろうとしているのであれば、私たちは、自分が抱えている苦難や弱さに目を向けるのではなく、神様に期待の視線を向けるべきです。そして、不思議で神秘的な、宇宙の創造者の知恵に満ちた御計画を間近で体験しようとしていることに、もっと興奮して期待を持っていても良いのではないでしょうか。「悲しんでいる人はさいわいである」とイエス様が言われたのは、その悲しみを通して、神の慰めと愛の奇跡を体験できるからなのです。光は、明るい所ではなく、真っ暗闇の中でこそ有難さが感じられるものです。
この長年辛い目に遭ってきたであろう目の見えなかった男性も、絶望の淵でイエス様の業に触れ、神の慰めと愛を体験することができました。この体験はおそらく、彼の人生の中でも最も素晴らしいものだったと思います。
ところでこの奇跡は、彼をはじめ、聖書に記された人だけに起こった奇跡でしょうか?いいえ、それは現在に生きる私たちの誰にでも起こりうることだと思います。
私たちは生まれつき目が見えないわけでもなく、耳が聞こえないわけでもない、また歩けないわけでも、重い病気にかかっているわけでもないかもしれません。しかし、普通、人は誰でも何らかの弱さや困難を抱えて、苦闘しているものです。それは体の不自由さや病気といったことばかりでなく、自分の生まれながらの性格や、悪癖や依存症、また様々な人間関係であったり、仕事や貧困であったり、人はそれぞれ何かを抱えています。
この目の見えなかった人になされた神様の業は、私たちの上にも為されます。そして、この神の奇跡の愛の業は、弱さや困難の中でしか、体験できない事なのです。ですから、私たちは、その弱さや困難に打ちひしがれるべきではありません。そして、それを恥じるべきでもなく、主の前に持ち出すのを恐れたり、人に知られるのを恐れるべきでもないのです。イエス様は、私たちが主の御許に行き、こう祈るのを待っておられると思います。
「主よ、この私の抱えている弱さ、問題にあって、あなたはどんな業をなそうとしておられるのですか?その御計画は何ですか?どうぞ見せてください。楽しみにしています」と。
どうか、弱い私たちを強くしてくださり、万事を益としてくださる主の、全能の力と深い愛に対して、御霊から頂く確信によって、今日も一日、主の恵みの内に生きられますように。
ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。 (第二コリント一二章九節)
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。(ローマ八章二八節)
(二〇一一年三月 ひとしずく四〇〇)
聖書の詩篇九一篇を今、家族で復習し暗記しています。この詩篇は災いの中においての励ましであり、神の保護の約束でもあります。その中に「たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災はあなたに近づくことはない」(詩篇九一章七節)という言葉があります。
実際この聖句の約束通り、奇跡の体験をして災いを免れた人も大勢います。しかし倒れてしまう千人、そして万人とはどんな人たちなのか? ということについて考えてみたいと思います。
神を信じる人たちも、その倒れる千人の中の一人、あるいは万人の中の一人として災いに遭う場合もあります。かつて神を信じていた多くの人々は様々な災害、事故、病気、迫害などで亡くなっており、また今生きている私たちも、同じようになる可能性があります。これは神の保護がないからなのでしょうか?
今回の震災で亡くなられた方の数は日に日に増え続け、ついに一万人を超えてしまいましたが、その中には神を信じる人は何人もいたことでしょう。神はどんな状況であっても私たちを助け出してくださいますが、時にはそうでない場合もあるのです。それは「死」という人生の卒業を迎える時です。
その人生の卒業とは、神の御心の時であり計画であり、決して運が悪かったからとか、そこにいなければよかったのに、と言ったようなものではありません。そしてこの神の御心の時に、人生の卒業を迎えるというのはクリスチャンに限ったことではなく、すべての人に言えることなのです。
神はすべてを愛と計画の内に行われます。しかし人間の限られた視点で見ても、なかなか神のなさることは、理解できないことも多いと思います。特に、人生は 「死」で終わってしまうものではないという理解の上に立たなければ尚のことです。しかし愛する人を失った方々の、深い悲しみを見る時、このことをぜひ知って頂きたいと、切に思うのです。「死とは地上における人生の卒業であり、次の世界への新しい入学の時である」ということを。
聖書では、この地上での人生について、「あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。」(ヤコブ四章一四節)と語っています。
神様が私たちに下さる永遠の人生に比べれば、地上の命はとても短く、一瞬にして無くなる霧のようなものだということです。特に猛威を振るう自然の前には、人間は木の葉のようにかよわい存在であることを、今、誰もが感じていることと思います。
しかし主は、こんな小さくかよわい存在である私たち人間に、とても大きく深い、恵みと慈しみを持って下さっているのです。亡くなった方々も神の愛する大切な子供たちです。神は、彼らの人生の卒業の日を定めておられ、彼らはその神の御心の時に、卒業したのです。そして地上の体という衣を脱ぎ捨て、もう一つの世界へ移動したのです。
ですから、地上にいる私たちは、卒業した彼らのことを心配することはありませんし、心配しても仕方のないことです。すでに卒業された方々に関してですが、聖書のこうした言葉があります。
正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。 しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。(ローマ五章七、八節)
福音を知らされずに亡くなった人達のことについて、私たちは心配してしまいますが、これほどの愛をもって私たちの魂を見ておられる神、私たちよりもはるかに大きな愛をもって、また細やかな愛で一人ひとりを見守っておられる神に、かつ聖であられ義であられ、そして命を創造された神の御手にこの世を立ち去った人達の世話を任し、最善をしてくださると信頼して間違いないでしょう。
死者の行く黄泉の世界における権威に関しても、聖書ではイエス様が「死と黄泉の鍵を持つ者」と言われています。
また、(イエスは)生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている。(黙示録一章一八節)
いずれにせよ、私たちは十分に次の世界のことを知ることはできませんし、生と死についても聖書で明かしてもらっていること以外には、あまり知りません。私たち自身がこの世を卒業し、主にお会いする時、その時には、顔と顔を合わせて教えていただけることでしょう。
わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。 (第一コリント一三章一二節)
聖書は、今生きている人たちに、語り掛ける神の言葉です。そして地上で福音に与ることができるようにと、イエス様は地上に来られ福音を宣べ伝え、また使徒たち弟子たちを遣わされて福音を聞いて信じる者が救われるようにされたのです。顔と顔を見合わせてついにイエスを神として認めずにはおられなくなるよりは、今この場で、神を認め、信じるなら、たった今から神の恵みに与ることができます。ですからイエスは「見ないで信ずる者は、さいわいである」と言われたのです(ヨハネ二〇章二九節)。
モリヤ山 (二〇二三年一月 ひとしずく四四二五)
海外にいる娘から、昨年の暮れに電話がありました。「ポイントがたまって、沖縄のホテルを利用できるんだけど、パパとママで行って来ない?一月中に使わないなら、無効になっちゃうんだけど」。
妻の健康状態から、妻は「行けそうにないから」と言って断りました。彼女は不整脈になったり、徐脈になったりで、よく静かに横になっている時が多かったのです。
私は、娘の申し出を断ったことを聞いて、何かひっかかることがありました。実は、その連絡を受け取ったその前の夜に、妻はある夢を見て、私に告げていました。
その夢には、彼女のすでに亡くなった父親が現れて「一緒に海に行こう」と誘ったのです。彼女は小さかったころ、よく父親が海に連れていってくれたと言っていたのです。
もし夢に何か意味があるとしたら、ただ海に行くというだけではなく、亡くなった父親のもとへというふうにも解釈できないわけではありません。
また、この娘が結婚する時、ジャマイカの海べで結婚式を挙げるからということで、私たちを招待したことがありました。それは、私たちが長い間、やっていた宣教の地から移動する時と重なり、またその後、東北大震災が起こり、色々な面で神様が私たちを現場から離れさせて、調整してくれる時でした。その時も妻は、体が弱く、行くことが神様の御心なのかどうか、祈らされました。行く時には、飛行機の空席三つを使って、横にならせてもらっての旅となりました。しかし、到着後、スタミナが与えられて、楽しく充実した時となったのでした。早くから私たち親の元から離れた娘は、結婚式には私たちを呼びたいと計画してくれていたので、お互い喜びを分かち合うことができました。主の御心であったこと、主の愛の深さを確信させてくれるものでした。
今回も、もしかしたら、神様の何かの御計画があるかもしれないと思い、妻に、行くのはどうかな?と一緒に祈って主に尋ねることを勧めました。もし御心でないなら、それこそ、命とりになりえます。しかし、ただ不安と恐れから、留まったからといって、祝福があるわけでもないし、不従順で行かないなら、癒しも期待できません。
私たちは、行くのが御心でないなら、主がはっきりと何かのしるしを下さるようにと祈っていました。もちろん、主の御声を求めて必死になって祈りました。そして主は、二人共に行くべきことを示されました。
そして、リフレッシュのためでもあるし、また信仰の仲間に会うようにも示されました。沖縄にいる私たちの知っている友人たちのことを思い出しました。
あとは主の御心がなされますように、と祈りました。妻は、もし体調が崩れたら、飛行機には乗れないだろうと思っていましたし、私も前日か当日のキャンセルしなければならなくなることも、覚悟していました。とにかく、今は主が行くようにと示されていること、それだけで十分でした。
出発当日から、秋田だけではなく、全国的な寒波がやってくるということでした。出発当日の朝はマイナス8度。青い青空を背景に白い雪で覆われた樹木の枝がキリッと浮き立って美しい朝でした。妻も体調良好。出発です。
沖縄に無事到着し、予約されてあるホテルの部屋に入り、ゆっくりしましたが、それから天気は崩れ、翌日には、外を歩いても吹き飛ばされそうな突風が吹き始めました。
私たちのところに来ようとしていたBさんとのアポイントは、翌日に変更しました。嵐がすごく、こうした寒波は沖縄でも珍しく、十六年ぶりということでした。私たちの沖縄滞在は、こうした荒れた天候で始まりました。何か今の時代を象徴しているように思えました。世界の情勢が色々な面で荒れている状態なので、私たちが到着した時の沖縄の天気もそうした状況を象徴しているかのようにも思えました。 ただ御心がなされるように、そしてとにかく主の御声に耳を傾けることができる機会が与えられていることを感謝しました。
私は、沖縄についてからも、実はまだ引きずっている戦いを抱えていました。それは、妻の父親が「お迎え」にでも来るのではないか、という不安でした。ちょっとしたことで、彼女の体調は崩れることもできるし、私は、無理なことを強引にやっているのかもしれない、という思いが頭の中にちらつきます。 その面で、私が祈りの内にもっと主とつながる必要があると感じました。そして沖縄に来る前から頂いていた御言葉の箇所を真剣に探る必要を感じ、聖書を開いてそれらの御言葉を御霊によって解いて頂くことになりました。
信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。 (ヘブル一一章一七節)
老年のアブラハムにとって、神よりの約束によって与えられたひとり子のイサクを捧げるということは、普通の人間の感覚で言ったら、トンデモないことです。
しかし、彼は神様のみ告げを受けた翌日の早朝には出発して、イサクを連れて行くようにと言われたモリヤ山に三日かけて辿りつきます。
…神はアブラハムを試みて彼に言われた、「アブラハムよ」。彼は言った、「ここにおります」。 神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。 アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。 (創世記 二二章一-三節)
彼はどうして、そのように、反応できたのでしょうか?彼は、神の約束を信じていたのです。
この子については、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたのであった。 (ヘブル一一章一八節)
イサクが死んでしまうなら、イサクから出る者がいなくなります。では燔祭としてささげるように、言われたアブラハムはどんな信仰を持っていたのでしょうか?
彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである。 (ヘブル 一一章一九節)
アブラハムは、「人をよみがえらせる力がある」神を信じていたのです。イサクを「生きかえして」戻して下さると信じていたのです。
うーん、アブラハムには、イサクについての神のお約束があったけれども、私には、妻に関してどんなお約束があるだろう?と思っていた時、次の聖句が心に思い浮かんできました。
もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。 (ローマ八章一一節)
尊い御霊は、私たち信者のすべてに宿っています。そして御霊は、わたしたちの死ぬべきからだをも生かす力があります。神には、何でもできないことはありません。
では、どうして弱さや病を私たちは抱えて生きるのか、という問いが自然と出てきます。
沖縄三日目に、私たちは、Bさんとの約束がありました。妻は、疲れすぎないようにと、初め私だけが会いに行くことを話していましたが、妻は、Bさん(奥さんを昨年亡くした)を励ましに行きたいと言ったので、二人で行くことになりました。もう何十年ぶりの再会でした。またBさんは美しい海岸に連れていってくれました。妻は帰ってきてから、ホテルの部屋の床で身をかがめて涙を拭いていたので、どうしたのかと聞くと、Bさんのために何もできなかった、と言いました。体がきつくて、ただ立っているだけで大変だった…何も自分にできることはないと。
確かに私たちは、何もできなかったし、何かしたわけでもないけれど、会いに行くことはできた、それだけでいいじゃないか、と言いました。今、私たちは、「サタンの反乱」(ロバート・ルギンビル博士著)の学びから、私たちが神のために何かする、あるいはしているという思いは、気を付けなければならないことを学んでいます。神様は、私たちの助けなしで、どんなことでもできます。私たちの分は、主が示されたことを行うだけです。そして祈ることができます。主が御心をなして下さるように。私たちの弱さの中に、神は働かれ、神だけが栄光を受けられます。
ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。 (第二コリント一二章九節)
アブラハムの話に戻りますが、結局、モリヤ山の上で、アブラハムがイサクを殺そうとした時、神はアブラハムを止められました。
彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。
そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、 主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。み使が言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それをその子のかわりに燔祭としてささげた。それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。これにより、人々は今日もなお「主の山に備えあり」と言う。 (創世記二二章九-一四節)
アブラハムの信仰は試されました。そして彼は、見事にテストにパスしたのです。モリヤ山の燔祭をささげようとしていた場所には「角をやぶに掛けている一頭の雄羊」がいて、それを燔祭としてささげることになりました。ある人達は、これをイエス様の予型であると解釈しています。やぶに頭がひっかかっている羊が燔祭のための生贄として備えられていたことと、茨を頭に載せられて十字架架けられたイエス様(神の小羊)の犠牲とが重なるということです。どちらも神様が与えて下さったものです。人の側からの犠牲の生贄ではなく、神様ご自身が人のために備えて下さったのです。アブラハムにしても、また私たちにしても、人の側に求められるのは信頼して従うことであり、神に受け入れられるための犠牲の生贄は神様ご自身が備えて下さるということです。
私たちの救いも信仰生活も神様の恵みによるものです。
あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。
決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。
わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。 (エペソ二章八-一〇節)
神の約束は、恵みを指し示し、私たちの肉の力によって何かを犠牲にすることを望まれません。私たちは、神様の御心を信じて行うだけでいいのです。私たちの良かれではなく、神の御言葉の言うことが大切です。
沖縄滞在の際に神様がして下さったもう一つの素晴らしいことをお伝えしておきたいです。嵐の翌日、妻がまだ隣の部屋で寝ている時、私はもう嵐が過ぎ去ったのかどうか見ようとしてホテルの部屋のカーテンを開けてみました。すると、濃い灰色の雲の空を背景にきれいな虹が見えました。しばらく見て、それから私は聖書を読んでいたのですが、妻が起きてきて、驚きの声を上げました。「虹よ」と。私はまだ虹が出ているのかと思って顔をあげると、私が先に見た虹よりももっと立派な虹が空にかかっていました。それから、しばらくすると二重の虹、それから他のところにまた虹がかかるというふうに、虹のショーを一時間近く、見ていたのです。
これは、妻と私にとって、あなたがたの信仰のステップをわたしは見ているよ、と神様が言っておられるようにも思えました。
み言葉からの信仰を励まされる主の約束の言葉と、こうした虹を神様が見せて下さって、私の心の隅にあった、モヤモヤとしたものは、吹き飛んでしまいました。夢であれ、あるいは先入観であれ、それらによってもたらされる恐れや不安を正しく対処しないで放っておくと、いつしか自分の霊や心を虜にし、自由を奪う牢獄の鉄格子のようなものになってしまうことがあります。しかし、それらは、真理に対する信仰のステップを踏み出すことによって、打ち壊されます。
私たちはそうした霊の戦い、私たちの思考の中に敵が築き上げようとしている要塞、あるいは牢獄を打ち壊す霊の戦いに従事しています。
わたしたちは、肉にあって歩いてはいるが、肉に従って戦っているのではない。 わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。わたしたちはさまざまな議論を破り、 神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ、 そして、あなたがたが完全に服従した時、すべて不従順な者を処罰しようと、用意しているのである。
(第二コリント一〇章三-六節)
妻と私は、私たちにとってのモリヤ山である沖縄に行って、数多くのことを見させていただいたと思います。帰る途中、妻を車いすで押して移動する必要もありましたが、無事家に帰ることができ、今は、疲れからの回復のためゆっくりとしています。信仰の面でとても益ある時でありました。色々なことを教えて頂きました。それらは、主の呼びかけに応えたゆえの祝福でした。
(※) 今回の沖縄で撮った、嵐、虹、砂浜の写真でシンプルな動画を作成しました。その動画の中のソング「浜辺の足跡」を歌っている兄弟と彼の奥さんともお会いでき、祝福された時を持たせて頂きました。歌のリンクを貼り付けておきます。
歌い手は松本和人氏 (→)
(二〇二五年一月)
人が、長い間の病を通して、また様々な人生の試練を通して、一見災いとしか思えないことが、実は新しい出発、新しい目標、新しいものの考え方につながるということはよくあります。特に信仰者にとって、神がいかにそれらの試練を使って、神とのつながりをさらに深くしてくださるかは想像をはるかに越えるものとなります。
これは、災害に遭遇する地域社会(今では世界中が様々な災害や困難、紛争に直面しています)にも、言えることであると思います。私の言いたい災害と新しい始まりとのつながりは、聖書で言っている「産みの苦しみ(陣痛)」のことです。 終わりの時のしるしとして、主イエス様が弟子たちの質問に答えられた言葉に次のようなものがあります。
民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。 しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。 (マタイ二四章七-八節)
戦争、飢饉、地震などが、新しい世界を産み出す際の「産みの苦しみ」の一つだ告げています。産みの苦しみを通してでなければ、新しい生命の誕生を見ることはできません。つまり、災いのように見えるものが、ついには新しい世界の誕生につながっているのです。これを聖書では、「主の日」と呼んでいます。つまり今までの古い時代が終わり、新しい時代が到来するのです。そして古いものが過ぎ去り、新しいものが(主の再臨と共に)到来しようとするとき、それは痛みをもたらします。
聖書的観点で捉えるなら、今までの人類史が大きな区切りを迎え、主イエスの再臨を機会にイエス・キリストによる統治、つまり千年王国の始まりとなるのです。
これは決して、戦争や、飢饉、地震によって人が苦しんだり、人命が断たれることが良いと言っているわけではありません。これらの多くが、憎しみや神の与えて下さった命の尊厳に対する尊重の欠如や、利己主義などの結果であって、神が人間に与えておられる戒めを破っている結果が主な理由です。その背後にサタンがおり、サタンの人間に対する誘惑や欺きがありますが、サタンにしろ、またサタンに加担する悪の軍勢にしろ、またサタンのそそのかしに惑わされて罪を犯す人間にしろ、それぞれ、自らの行いに対する責任を負っているのです。しかし、その罪の結果を神様のみ前で償いきれる者は、イエス・キリスト以外には誰もいません。イエス様は、その罪の贖いという困難な業をなし終えられたのです。それはあなたや私のために、そして全世界の罪の贖いとして、罪を赦すために、十字架の上で犠牲となられたことです。誰でも、イエス・キリストが十字架の上でなして下さった犠牲によって与えられた罪の赦しを受け入れる者は、赦され、新しく神の子としての人生を始めることができます。これは神よりの恵みに満ちた贈り物です。
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ三章一六節)
神へ至る道は、イエス・キリストを通してのみです。イエスはあなたが永遠の命を持ち、父なる神のもとに生けるように、道を開かれました。是非、御子イエス・キリストを神の子として信じ、また彼に従って下さい。主イエスは、あなたにかつて知らなかった素晴らしいものを備えておられます。次の祈りをお祈りするようにお勧めします。どうかイエス・キリストをあなたの心に迎えいれ、新しい神への道、永遠の命のもと天に至る道を歩み始めて下さい。
「主イエス様、わたしの罪の赦しのために十字架で、命を捨てて下さったことを感謝します。あなたの愛でわたしの心を満たし、あなたの道を歩むことができますように。」
主イエス様が再臨と共にもたらす、新しい世紀のために備えて下さい。産みの苦しみの短い期間を乗り越えて、祝福された永遠の命に生きられますように、お祈りしています。
「道」であるイエス・キリストを信じ受け入れた人は、キリストの犠牲の生涯を深く学び、また日々、彼の後についていくという尊い特権と召しも神様から頂いています。
これは、古い以前の生き方や世の慣習とは別の、新しい天の市民としての生き方の始まりを意味します。新しい人生の始まりです。それに伴い、以前では知らなかった、学ぶ必要のある神の子としての権利、義務、祝福、報酬など、数多くの事柄があります。
この「道」シリーズは、新しくイエス・キリストを信じて、イエスを人生に招き入れられた方々が、信仰生活の色々な側面を学ぶための、一助となることを目指して始めるものです。
神の言葉は奥深く、その学びは山登りにも似ています。信仰はただ聖書の知識を頭に詰め込んでその知識を増やして満足することではなく、それを生きることが大切です。聖書を深く掘り下げて学んでいくと同時に、将来の高嶺を目指すことに備えていく必要があります。このシリーズは基礎的なテーマを取り上げており、信仰の道を歩み始めた方々の今と将来の歩みに役立てて頂きたいと願っております。祈りや、イエス・キリスト、聖霊、天使、エクレシア(教会)など諸々のテーマを共に学んで、私たちが真理にあって一つの体、イエス・キリストにしっかりとつながることができるように、このシリーズが読者の方々のお役に立てますようにお祈り致します。