イエス・キリストの救いの御業-パート14
聖書の基本4
ロバート・D・ルギンビル博士著
II. イエス・キリストの救いの御業 <xiv>
10. 救いをもたらしたキリストのわざの要約 : 人類は無力で絶望的であり、永遠の断罪に直面していました。しかし、「私たちの救い主である神の善と慈愛が[肉において]現れた」(テトスへ3章4節)とき、すなわち、「神の恵み」を体現したイエスが「すべての人類に救いをもたらした」とき、人類は希望を取り戻しました(テトス2章11節; ヘブル9章26節; 第一ヨハネ1章2節; 3章5節参照)。私たちがまだ罪人であったとき、キリストは私たちのために死んでくださったのです」(ローマ5章8節)。あなたと私、そしてすべての人々のために、これまでに犯された、あるいはこれから犯されるあらゆる罪のために、十字架上で死なれたのです。罪を贖うイエス・キリストの御業は、聖書の中で「キリストの血」と呼ばれています。この言葉は、私たちの主の文字どおりの血を指しているのではありません。なぜなら、主は実際に血を流して死なれたのではなく、救いの御業が成し遂げられた後、自らの意志で霊を捨てられて、「今、成し遂げられた!」と宣言されたからです(ヨハネ19章30節)。私たちの罪のために死なれた十字架上の御業、つまり霊的な死のことです。 イエスは、私たちの身代わりとなって裁かれ、私たちの身代わりとなって死刑を宣告され、カルバリの暗闇の中で、私たちのすべての罪のために刑罰を受け、そのすべてをご自分のからだをもって木の上で負われたのです。このことは、謙遜と悔い改めによって、私たちに代わってなされたイエスの身代わりの死をありがたく信仰によって受け入れた私たち、今、イエスを「主」と呼ぶ私たちのためだけでなく、イエスを拒んだ人々のためにも死なれたのであり、贖いは全人類のための普遍的なものでした。
キリストの血は、イエスが十字架上でこの世のすべての罪のために死なれ、刑罰を支払われた霊的な死のことであり、罪が贖われるという父の義の要求を満たすために完全に効果のあるものであったと宣言されています(エペソ5章2節; マタイ3章17節, 17章5節; マルコ1章11節; ルカ3章22節; 第二ペテロ1章17節参照)。
(25) 神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがない(または、償い; 字義どおりには「宥め」)の供え物とされた…(ローマ3章25節前半)
神の正義の要求を満たしたキリストの血は、罪深い人類を罪の束縛から救い出す償いとしての役割を果たし、私たちが行ったすべてのことに対する刑罰の全代価を支払うことによって、私たちを罪の奴隷状態から救い出し下さるのです; 私たちは、キリストの血が救いをもたらすこの側面を贖い(あがない)と呼びます。
わたしたちは、御子(すなわち、キリスト)にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血による[罪からの買い戻し、すなわち]あがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。(エペソ1章7節)
(18)あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、(19)きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。(第一ペテロ1章18-19節)
罪の束縛から贖われ、罪の支配下から買い取られ、信仰によって獄舎から出て行く私たちは、キリストの血によって清く洗われ,自分の義の代わりにキリストの義を受けるので、神の義によって罪のない者とみなされます; 私たちは、救いにおけるキリストの血のこの側面を義認と呼びます。
わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。(ローマ5章9節)
今、罪の汚れを洗い清められ、信仰によって義とされた者として(ローマ3章28節, 4章1節, 5章1節; ガラテヤ2章16節, 3章11節, 3章24節)、私たちは、私たちの仲介者、その血によって私たちを救ってくださった方、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストによって、神の前に差し出され、私たちの愛する父の御前に再び導かれるのにふさわしいのです; 私たちは、救いにおけるキリストの血のこの側面を和解と呼びます。
これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のために[身代わりとなった、すなわち、]とりなしをした。(イザヤ53章12節後半)
(19)神は、<喜びのうちに>御旨によって、御子のうちにすべての満ちみちた徳を宿らせ、(20)そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである。(コロサイ1章19-20節)
イエスは、私たちの大祭司であり、神の償いであり、ご自分の血によって全人類のために贖う手段です。
そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなう<英文:償う>ために(すなわち、ご自分の犠牲によって)、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。(ヘブル2章17節)
イエスは私たちの贖い主であり、ご自分の血によって、罪からの解放と、それを受けようとするすべての人の贖いを買い取られました。
主は言われる、「主は、あがなう者としてシオンにきたり、ヤコブのうちの、とがを離れる者<英文:自分の罪を悔い改める者>に至る」と。(イザヤ59章20節)
彼らは新しい歌を歌って言った、「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、 わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう」。(黙示録 5章9-10節)(参照:黙示録14章3-4節)
イエスは私たちの救い主であり、御自分の血にある義によって、私たちを罰から救い出してくださいました。
義なるわがしもべはその知識によって、多くの人<英文:大いなる[心の]人達](すなわち、信者)>を義とし、また彼らの不義(字義どおりには、「罪」(複数))を負う。(イザヤ53章11節後半)
わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって[来たらんとする裁きの]神の怒りから救われるであろう。 (ローマ人5章9節)
イエスは私たちの仲介者であり、私たちを神と和解させ、永遠の相続と復活という私たちの希望を待ち望んで、ご自身を信じるすべての人を至高の神の息子や娘とされました。
しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、 かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。 もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、 永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。 それだから、キリストは新しい契約の仲保者なのである。それは、彼が初めの契約のもとで犯した罪過をあがなうために死なれた結果、召された者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐためにほかならない。(ヘブル 9章11-15節)(参照:ヘブル12章24節)
私たちの神は、本質的に善であり、愛に満ち溢れる神です。
この愛は、私たちを贖うという大きな恵みとして現れています。
私たちの神は、本質的に聖であり、正義に満ち溢れる神です。
この正義は、私たちを義とするという大きな慈悲として現れています。
私たちの神は、本質的に真実であり、命に満ち溢れる神です。
この命は、私たちを和解させるという神の大いなる平安として現れています。
なぜなら、私たちの神は、唯一の愛する御子を私たちのために死なせることで、神のあらゆる側面において御子の血潮によって私たちの罪を洗い流し、神の御心に適うものとなさったからです。
それゆえ、私たちは奴隷ではなく、贖われ、信仰によって神に従う自由を得ました。
また、私たちは有罪宣告ではなく、義とされ、主の血によって洗い清められました。
そして、遠ざけられるのではなく、和解を得、神の子とされました。
主イエス・キリストをたたえましょう。主は私たちを愛し、この永遠の命を私たちに与えるために死んでくださいました。
結論: というのも、イエス様御自身が真理の御言葉であり(ヨハネ1章1-5節, 1章14節; 第一ヨハネ1章1-3節; 黙示録19章13節)、聖書の全ての真理は、イエス様と複雑かつ表裏一体の関係にあるからです。
イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。(ヨハネ21章25節)
私たちの大祭司であり、贖い主であり、救い主であり、仲介者であるイエスが与えてくださった「大いなる救い」(ヘブル2章3節)以上に、イエスは私たちの造り主であり、模範であり、導き手であり、友であり、主であり、神です。 主は私たちのすべてです。[1]主こそ私たちがどんなものにもまして、愛する方です。なぜなら、主は最初に私たちを愛し、私たちに代わってご自身を死に渡されたからです。
「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。(第二コリント4章6節)
[1] この救済の大きな利点とその仕組みについては、このシリーズの次の回、第4部B「救済論:聖書における救済の研究」で取り上げます。
— 「聖書の基本第4部A 終わり」 —