イエス・キリストの救いの御業-パート7
聖書の基本4
ロバート・D・ルギンビル博士著
II. イエス・キリストの救いの御業 <vii>
<5. キリストの霊的な死-ii :>
c. 罪を償うためにキリストは霊的に死なれた:キリストの霊的な死が私たちにもたらす恩恵は、「罪の問題」を解決することです。これが「キリストの血」の背後にある第一のイメージです。動物のいけにえでは、犠牲となった動物の死はその流れた血から明らかであり、供え物を捧げる者はその血を振りかけることによって象徴的に清められます(ヘブル9章13-21節, 11章28節, 12章24節; 出エジプト24章6-8節, 29章16-21節; レビ記1章5-11節, 3章2-13節; レビ記と民数記の各節を参照)。
神はわたしたちの罪のために、[個人的な]罪を知らないかたを罪(すなわち,罪の供え物)とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。 (第二コリント5章21節)
したがって、この喩えで言えば、実際の血はキリストの霊的な死を表しており、礼拝者(信仰の象徴:第一ペテロ1章2節)に振りかけると、罪から清めることができます。キリストの霊的な死は、救いの障害となる罪を取り除くために必要でした。その結果、私たちに代わってキリストが霊的な死を遂げられた対象、つまり「標的」となったのは、過去、現在、未来に犯したすべての人間の罪です。 キリストは、あらゆる罪を償い、その罰を取り除くために、霊的に死にました。それは、他のどんな人間も償うことのできない、差し迫った不可能な負債でした。
なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。(ローマ 6章10節)
わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、(第一コリント15章3節)
キリストは、わたしたちの父なる神の御旨に従い、わたしたちを今の悪の世から救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のためにささげられたのである。 (ガラテヤ1章4節)
d. キリストは、その身に私たちの罪を負われた: 人間は普遍的に二元論的であり、肉体と人間の霊の両方を備えています。[1] 肉体は、私たちが物質世界に従う場所であり、私たちが現在痛みを経験することができるのは、私たちの(肉体と霊が接する私たちの内なる人である)「心」、「精神」、「魂」における肉体と霊の相互作用を通してのみなのです。 永遠の世界では、復活を待つ天国(私たちは暫定的な肉体を持つ)でも、復活後の完全で永遠の肉体でも、信者にとって痛みや苦しみは完全に過去のものとなります(黙示録7章14-17節参照)。 私たちの罪を贖うために、つまり、私たちと聖なる神との間の問題や「障壁」を取り除くために(エペソ2章14-18節)、イエスはご自分のからだで罪を負わなければなりませんでした。 だからこそ、イエスの受肉、すなわち、(神性が損なわれることなく)真の人間としての肉体を得ることが、私たちが救われるために絶対不可欠だったのです。 肉体がなければ、キリストは私たちの罪をその身に負い、その罪のために罰を受けることができませんでした。 このように、主が人間の体を持たれたことは、主が私たちの代わりに霊的に死ぬことができるようになり、その結果、全人類に救いを与えられるようになるために、根本的に必要なステップだったのです。
(5)それだから、キリストがこの世にこられたとき、次のように言われた、「あなた[父]は、いけにえやささげ物を望まれないで、わたしのために、からだを備えて下さった。(6)あなたは燔祭や罪祭を好まれなかった。(7)その時(すなわち、御降誕の時)、わたし(神なるイエス・キリスト)は言った、『神よ、わたしにつき、巻物の書物に書いてあるとおり、見よ、御旨を行うためにまいりました(すなわち、生まれました)』」。(8)ここで、初めに、「あなたは、いけにえとささげ物と燔祭と罪祭と(すなわち、律法に従ってささげられるもの)を望まれず、好まれもしなかった」とあり、(9)次に、「見よ、わたしは御旨を行うためにまいりました」とある。すなわち、彼は、後のものを立てるために、初めのものを廃止されたのである。(10)この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。(ヘブル10章5-10節)
キリストが「私たちの罪をその身に負われた」ことを聖書が強調しているのはこのためです。 それは、キリストが、すべての罪のために全罰を耐え忍んで霊的な死を受けられたのは、その本物の人間のからだにおいてだったからです:
(4)まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。(イザヤ53章4節)
(11)…また彼らの不義(文字どおりには罪)を負う。(12)それゆえ、わたしは彼に大いなる者[兄弟たち]と共に物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。(イザヤ53章11節後半-12節)
(14)キリストはわたしたちの平和であって、二つ[ユダヤ人と異邦人]のものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、(15)数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、(16)十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、[神と人間との間の]敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。(エペソ2章14-16節)
(21)あなたがたも、かつては悪い行いをして神から離れ、心の中で神に敵対していた。(22)しかし今では、御子はその肉のからだにより、その死をとおして、あなたがたを神と和解させ、あなたがたを聖なる、傷のない、責められるところのない者として、みまえに立たせて下さったのである。(コロサイ1章21-22節)
(27)そして、一度だけ死ぬこと(すなわち、最初の「肉体的な」死)と、死んだ後さばきを受けること(すなわち、「第二の死」、黙示録2章11節, 20章6節, 20章14-15節参照)とが、人間に定まっているように、(28)キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。 (ヘブル9章27-28節)
キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた(すなわち主の死は罪による隔てを取り除くためでした)。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。 (第一ペテロ 3章18節)
さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。 (第一ペテロ2章24節)
この最後の箇所でペテロが語っているように、私たちが罪に対して死んだのは、イエスが私たちの罪を負い、私たちにふさわしい刑罰を受けて私たちのために霊的に死んでくださったからであり、私たちの傷がいやされたのは、私たちによって、また過去、現在、未来のすべての人類によって犯されたすべての罪のためにイエスが傷を負われたからなのです。
(14)このように、子たち(すなわち、神によってキリストに与えられた信者たち:13節)は血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、(15)死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。
これは、私たちのためのイエス・キリストの霊的な死です。これが「キリストの血」なのです。私たちの親愛なる主イエスが、すべての人が救われるために、十字架上でその身に全人類の罪の罰、処罰、痛みを負われたのです。 私たちが「いやされた」(第一ペテロ2章24節)のは、この主イエスの純粋な人間の体の「傷」によるのです:
(19)兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく[天の]聖所にはいることができ、(20) [犠牲による]彼の(新しく殺された)肉体なる[隔ての天の]幕(参照.ヘブル10章10節,10章18節)をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、(21)さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、(22)心はすすがれて良心のとがめを去り[ぬぐい去られ]、からだは清い[御言葉の(参照.エペソ5章26節)]水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、[祈るために恵みの御座の]みまえ (参照.ヘブル4章16節)に近づこうではないか。
e. キリストは私たちのために死なれ、私たちのために見捨てられた: 完全な聖性を持たれる神は、罪や罪深さとは直接的な接触を持つことはできません。つまり、それらに対して正しい裁きを下すことなしに接触を持たれることはできません。 このように、被造物の罪と罪深さは、サタンの反乱の後、御父が第三の天に自発的に遠のかれたこと(原初の楽園は地上にありました[2])、また、アダムの血筋に生まれた人間としてすべての者が引き継いでいる霊的な死の結果として、誰もが生まれながらに置かれている神からの分離の理由です[3]。 十字架以前の罪に対する罰が保留されたのは、私たちに代わってメシアが犠牲となることが約束され、予期されていたからに他ならず(ローマ3章25節; 使徒行伝14章16-17節, 17章30節参照)、私たちがその恵み深い犠牲を信仰によって受け入れるとき、霊的な死から霊的な命に生まれ変わることができるのは、カルバリーにおけるイエスの歴史的な罪の贖いのおかげに他なりません(エペソ2章1-9節)。
もちろん、私たちの主イエスは罪なく生まれ、罪を犯したことはありません。 ですから、十字架にかかるまで、御父の愛と交わりから引き離されることはありませんでした。 キリストが暗闇の中で私たちの罪を背負って苦しまれたことの非常に重要な側面の一つは、キリストが(人間性において)神から疎外された状態でそうされたという事実です。「私たちの代わりに罪ありとされた」(第二コリント5章21節)のです。つまり、罪がないにもかかわらず、罪の罰を受けるべき者として扱われたのです。このような場合、少なくともイエスが私たちの罪のすべての裁きを受けておられる間、イエスが御父との交わりを続けることは不可能でした。
わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。(詩篇22篇1節)(参照:マタイ27章46-47節; マルコ15章34-35節)
これらの言葉は、十字架上の暗闇の中で、イエスの体において世の罪が裁かれた後に語られたものです。さらに、先に述べたように、この言葉は私たちのために語られたのです。イエスは、御父がなぜイエスとの交わりを断ち切られたのか、十字架にかかる前からよく知っておられたからです。 イエスは私たちの代わりに裁かれ、その裁きを受けるために、私たちのために見捨てられなければならなかったのです。
この見捨てられた叫び[すなわち、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」:マタイ27章46節; マルコ15章34節]は、イエスの初降臨と死における目的の核心;すなわち、人類の罪を身に負われたこと(へブル9章28節)を反映しています。 罪は聖なる神から引き離すものですから、イエスは死の瞬間にその引き離されることに耐えなければならなかったのです。そうでなければ、刑罰を受けることはできなかったのです[4]。
地獄の本質は、神のいない状態です。現世におけるすべてのどうしようもない苦しみは、神から遠ざかっていることの一部分であり、私たちの真の喜びはすべて、神との親密さと切り離せないものなのです。天から離れて地上のこちら側で、イエスの犠牲のこの特別な部分の大きさ、つまりこの分離がイエスの代償となったもの、あるいは御父の代償となったものを、誰もが理解できるようになるとは思えません。この点に関して私たちが言えることは、第一に、私たちの罪の裁きは闇が晴れた後に終わったということです。詩篇22篇1節では、私たちの主は、見捨てられたことはもはや過去のことであるとしています(すなわち、「なぜ私をお見捨てになったのですか<新改訳Ⅳ>」)。 第二に、主が見捨られたことは無駄であったどころか、主が遣わされた使命、すなわち、救いの障害となる世の罪を取り除くことを成し遂げられたのです: 「ヨハネ19章30節, 19章28節; 詩篇22篇31節と比較)。 第三に、私たちを罪から解放する死は、イエスの肉体的な死(この時点ではまだ将来のこと)ではなく、暗闇の中で罪のために死なれた死、すなわち、イエスの霊的な死、キリストの血、すなわち、私たちの愛する主イエスがすべての人間の罪の刑罰を支払うために受けた苦しみでした。 なぜなら、十字架上の暗闇の中で、イエスは「のろわれ」、罪とされ、私たちのためにのろわれ、私たちのために見捨てられ、父の愛から引き離され、私たちの代わりに父の怒りを受けさせられたのです。それによって、私たちが主に対する信仰によってその怒りから救われるためです(参照.ホレブ山の「見捨てられて」打たれた岩:出エジプト17章5-7節)。
キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」(申命記21章23節)と書いてある。(ガラテヤ3章13節)
このように、イエスが十字架にかけられたこと、私たちのために呪われたこと(ローマ9章3節; ヘブル6章8節参照)、暗闇の中に追放されたこと(マタイ8章12節, 22章13節, 25章30節, 25章41節)はすべて、イエスが私たちのために罪とされ、私たちの罪を負い、私たちの罪のために私たちの代わりに裁かれ、罰せられるために耐えなければならなかった退けられることや見捨てられることを語っています。 これらのことはすべて、イエスの霊的な死が必然的に伴う御父からの疎外を語っており、その恐ろしい犠牲の真の代償は、私たちが想像することさえ難しいものです。
[1] 「聖書の基礎」第3A部、「人間学」第II.3章「人間の霊」を参照。
[2] 「サタンの反乱」シリーズの第1部II.6「7つのエデンの園」を参照してください。父なる神の到来と再臨は、罪と罪深さが宇宙から完全に除去された後、そして新エルサレムが新地球に降り立った後(ヨハネの黙示録21-22章)にのみ起こります。
[3] これらの問題については、このシリーズの第3部B「ハマルセオロジー:聖書における罪の研究」参照。
[4] トマスとガンドリ著『A Harmony of the Gospel (福音書の調和)』(シカゴ、1978年)p. 245 注釈 q.
<パート8に続く>