イエス・キリストの救いの御業-パート4
聖書の基本4
ロバート・D・ルギンビル博士著
II. イエス・キリストの救いの御業 <iv>
3. 無制限の贖罪<b>:
(23)すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、(24)彼らは[みな]、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。(25)神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、(26)それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。(ローマ3章23-26節)
上記の箇所は、私たちの主が十字架につけられる前に歴史的に犯されたすべての罪(25節)を非常に明白に指しており、この節が始まる重要な事実、つまり、すべての者は罪を犯しており、それゆえすべての者が贖罪を必要としているという事実に直接対応しています。このキリストの犠牲の普遍性、つまり過去、現在、未来の世界史で犯したすべての罪のためにキリストが死なれたことは、多くの聖句で教えられています(第二コリント5章19節; 第一テモテ2章4-6節; 第一ヨハネ2章2節):
その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。(ヨハネ1章29節)
たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。(ヨハネ12章47節)
なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。(第二コリント5章14-15節)
ただ、「しばらくの間、御使たちよりも低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光とほまれとを冠として与えられたのを見る。それは、彼が神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれるためであった。(ヘブル2章9節)
彼[イエス]は、ほかの[人間の]大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、いけにえをささげる必要はない。なぜなら、自分を[いけにえとして]ささげて、一度だけ、それ[いけにえとしてささげること]をされたからである。(ヘブル7章27節)
あなたがたが知っているとおり、彼は罪をとり除くために現れたのであって、彼にはなんらの罪がない。(第一ヨハネ3章5節)
イエスがすべての罪のために死なれたので、それ以上の罪のためのいけにえは必要ないのです(ヘブル10章15-18節)。しかし、全世界のための罪のあがないとは、全世界の人が贖罪(しょくざい:神が罪のゆるしのために犠牲を払われたこと)を受け入れるという意味ではありません。キリストがすべての人のために死なれたという事実は、すべての人がキリストの犠牲を受け入れ、キリストとキリストの御業に信仰を置き、永遠の命を得るという意味ではありません。全世界のための罪の赦しのわざというのは、イエスが救いの障害となる罪を取り除かれたことを意味します(後述のⅡ.9節「和解」を参照)。全世界のための贖罪とは、イエス・キリストを信じる信仰によって全世界が得られる罪の赦しと罪からの解放の贈りものを、全世界の人が皆、受け入れるという意味ではありません。
これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。(マタイ26章28節)(マルコ14章24節参照)
罪と死からの解放はすべての人に与えられていますが、すべての人がそれを受け入れるわけではありません。イエスがどのようなお方で、私たちの罪のために死なれたことを受け入れられない人がいるからといって、十字架の贖いが全体的にも個人的にも無効になるわけではありません。なぜなら、神がそのひとり子の犠牲によって私たちの罪を取り除いてくださったことを受け入れることを拒否することによって、人は必然的に自分の(善行による)功徳によって神の前に立たなければならなくなるからです。イエスは全人類の救い主ですが、イエスを受け入れ、信じ、イエスに従う者だけが、イエスのうちに神がすべての人に与えてくださる救いの恩恵を得ることができるのです。
わたしたちは、このために労し苦しんでいる。それは、すべての人の救主、特に信じる者たちの救主なる生ける神に、望みを置いてきたからである。(第一テモテ4章10節)
彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名(すなわち、ひとり子というお方)を信じることをしないからである。(ヨハネ3章18節)
その方[聖霊]が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。義についてというのは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。(ヨハネ16章8-11節)
上記の最後の二つの聖書の箇所は、十字架の贖いの恩恵を受けることができないのは、個人的な選択の結果、つまりイエスを信じないという選択の結果であることをはっきりと示しています。 これは、私たちの主が死ぬことができなかった一つの罪、私たちの罪のために主の犠牲を受け入れることを拒否した罪です。神は、イエス・キリストの真理を否定する罪を除き、救いの妨げとなる他のすべての罪を赦す用意があります。神が私たちのためにひとり子を犠牲にして死に渡されたときに、神を「嘘つき」と呼ぶことは、「赦されない罪」であり、「聖霊に対する冒涜」という「永遠の罪」、すなわち、主イエス・キリストというお方とそのなして下さったことを拒絶することです(マタイ12章31-32節; マルコ3章28-30節; ルカ12章10節)。 しかし、真理を受け入れ、イエスを信頼し、最後まで信仰を保って忠実にイエスに従うすべての人にとって、イエスの贖いの犠牲は、神との関係に入る上での問題である罪をすでに取り除いており、信仰による恵みによって、実際には罪人である私たちも、原理的には義とされ、私たちに代わって血を流してくださった方の血によって義とされるのです(ローマ3章24節, 4章25節; 後述のⅡ.8参照)。
<パート5に続く>