イエス・キリストの生涯-69

イエス・キリストの生涯-69

聖書の基本4

https://ichthys.com/4A-Christo.htm

ロバート・D・ルギンビル博士著

4) 復活の経緯<vi>:

7) ガリラヤの海で七人に(ヨハネ21章1-23節):  十字架につけられた後、十一人がエルサレムから直接ガリラヤに向かうことは、主がずっと計画されていて、待ち合わせ場所まで指定されていたようです:

しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう。(マタイ26章32節)

しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう。(マルコ14章28節)

今から弟子たちとペテロとの所へ行って、こう伝えなさい。イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう、と。(マルコ16章7節) (マタイ28章7節参照)

そのとき、イエスは彼らに言われた、「恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい。(マタイ28章10節)

さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。(マタイ28章16節)

理想的には、弟子たちが完璧に反応していたと仮定すると、迫り来るイエスの死の必要性について、また、十字架刑の三日後に続く復活の現実について、イエスが語ったすべてを聞くべきであったし、また聞いたはずであったと推測できます。そして、彼らは約束の地であるガリラヤの山で主と会うために、すぐにガリラヤへ向かうべきであったし、また向かったはずでありました。しかし、少なくとも上記の八日間を経て後、彼らは最終的にガリラヤに行きましたが、最初に行ったのはガリラヤの海の周辺にある彼らの家だったようです(ヨハネ21章1節; マタイ4章18-22節参照)。 ヨハネは、21章に記されているように、イエスが彼らに現れたのは「三度目」であり(ヨハネ21章14節)、さらに、その場所に一緒にいたのは七人だけであったと告げています:  「シモン・ペテロ、トマス(ディディムスと呼ばれた)、ガリラヤのカナから来たナタナエル、ゼベダイの子たち、そして他の二人の弟子」(ヨハネ21章2節)。 この出現において、主は再びその新しい肉体が現実の物理的なものであることを示されただけでなく、ペテロに、十一人のリーダーとして、彼ら全員が「わたしの羊を養う」こと(ヨハネ21章15-17節)の必要性を説かれました。つまり、キリストの体を定期的に、かつ継続的に栄養価の高い霊的な食物で養うこと、そして「食べる」ことは、教えられた真理への信仰の象徴であることを説かれました(マタイ24章 45節; ルカ12章42節; 使徒行伝20章28節; 第一コリント3章2節; 第一テモテ4章6節; ヘブル5章12-14節; 第一ペテロ2章2節; 第一ペテロ5章2節; マタイ14章16節; マルコ6章37節; ルカ9章13節; ユダ1章12節参照)。

8) ガリラヤの山で十一人に(マタイ28章16-20節):

さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。(マタイ28章16節)

マタイの物語は、墓にいた衛兵のユダヤ当局への報告(マタイ28章11-15節)という余談の後、イエスの他の女性たちへの出現と、弟子たちに対する「ガリラヤへ行きなさい。そこでわたしに会えるから」(マタイ28章10節)というメッセージから、上の節に直接飛びます。 ヨハネによる福音書21章のガリラヤの海での主の出現の後に、十一人全員はついに「行くように命じられた山」に集まりました(マタイ28章16節)。

(17)そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。(18)イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。(19)それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、<父と子と聖霊との名によって、彼らに>(→父という方の中に、子という方の中に、そして聖霊という方の中に入る)バプテスマを施し、(20)あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。(マタイ28章17-20節)

ガリラヤ、特に山上での待ち合わせは、主がそのために意図された場所でしたから、主は出現のたびに弟子たちに何かを教えられましたが、この箇所で、復活後の主の教えのおそらく最も詳細な例を見ることができるのは、驚くことではありません(ここでは非常に簡単な概要が示されていますが、ヨハネ20章30節, 21章25節; 使徒行伝1章3節を参照)。 この時までに、弟子たちは皆、主を少なくとも二度見ています(つまり、最初の出現にはトマス以外の全員が、二度目には十一人全員がおり、トマスはヨハネによる福音書21章の出現に挙げられている一人です)。 しかし、それでもなお、彼らの中には「疑いを持った」者もいたと言われています。復活という概念や考え方は、この最初の信者たちにとって非常に難しかったのです。彼らは復活の直接の証人となるという祝福を受けていたにもかかわらずです。もちろん、聖書の詳細な証言と聖霊の普遍的な内在がある今日でさえ、文字どおりの肉体的な復活は多くのクリスチャンにとって依然としてつまずきの石であり、それは悲劇的なことだと筆者は見ています。復活は私たちの希望であり、イエスの復活と私たち自身の復活から切り離すことのできない永遠の命の希望だからです(第一コリント15章12-17節)。 これこそ、クリスチャンとして「私たちに委ねられている」第一の重要な点なのです(第一コリント15章1節)。 キリストへの望みが現世にしか及ばないのであれば、私たちは実に「誰よりも哀れむべき存在」(第一コリント15章19節)だからです。復活の希望は、新約聖書のほぼすべての章に見られます(例えば、ローマ5章2節, 8章25節; 第一コリント13章13節; ガラテヤ5章5節; エペソ1章18節; コロサイ1章23節, 1章27節; 第一テサロニケ1章3節, 5章8節; 第二テサロニケ2章16節; 第一テモテ1章1節, 4章10節; テトス1章2節, 2章13節; ヘブル3章6節, 6章18節, 7章19節, 11章1節; 第一ペテロ1章3節, 1章13節, 3章15節; 第一ヨハネ3章3節)、この希望がクリスチャン生活の適切な、第一の焦点であると言っても過言ではありません。ですから、私たちは、主が死者の中からはっきりとした肉体をもってよみがえられ、その肉体はもはや死の対象ではなく、永遠の命にふさわしいものであったという多くの証拠を持っていることは、本当に幸いなことなのです。

この時、何人かの弟子たちが表明した疑念は、聖霊の到来と対をなすものであり、その後、弟子たち/使徒たち全員が、福音書における彼らの行動と『使徒行伝』における彼らの行動を比較すれば、誰もが目を見張るような熱意、勇気、そしてゆるぎない信仰を示すようになっています。ですから、マタイによって与えられたこの時期のイエスの教えの内容の概要の中で、たとえその事実がしばしば誤解されているとしても、聖霊の働きが大きく取り上げられていることは十分に理解できるのです。主の教えの三つの要点がここに記されています。第一に、救いのメッセージ、すなわち、主イエスが死に打ち勝ち(それによって主は「すべての権威」を獲得されたのです)、復活されたことについての福音、あるいは「良い知らせ」は、今、主イエスに信仰を置き、主イエスに従うすべての人が手に入れることができるものであり、今、イスラエルを越えて、「すべての国民」に届けられるべきものであるということです。 第二に、イエスはこれらの「進軍命令」(しばしば「大宣教命令」と呼ばれます)が達成される手段について述べます。 そして第三に、使徒たちの中の疑念を抱く者たちだけでなく、将来同じような疑念を抱くかもしれないすべての人々のためにも、重要な安心感を与えるものです:  現在、私たちは主を見ることができないかもしれませんが、ここで与えられた主の言葉を信じるなら、主は確かに「私たちと共に」おられ、それ以上に、私たちが主の再臨の日、すなわち「時代の終わり」の再臨までとどまるとしても、最後まで「私たちの内に」おられます。生き残ったすべての信者が「空中で主と出会うために一緒に引き上げられる」とき、(第一テサロニケ4章17節)生ける復活の中で、私たちの現在の体が一瞬にして永遠のいのちに飲み込まれるのです。

[御霊が来られる(ヨハネ14章15-19節)]その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。(ヨハネ14章20節)(参照:ローマ8章10節; 第二コリント13章5節; エペソ3章17節; コロサイ1章27節

もちろん、「イエスはまだ(父の右に坐することによる)栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかった」(ヨハネ7章39節)のです。弟子たちの一部が抱いた疑いは、主から与えられた一時的な油注ぎでは、真理を受け入れるための障害をすべて取り除くには不十分であったことを明確に示しています。<この一時的な油注ぎは>後に実際に聖霊が内在するようになるほどではありませんでした。(ヨハネ20章22節; 使徒行伝2章1-44節, 4章13節参照)。そして、主が第二の教えで言及されたのは、この賜物であって、水のバプテスマではありません。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、キリストは「聖霊でバプテスマを授ける」(マタイ3章11節; マルコ1章8節; ルカ3章16節; ヨハネ1章3節; 使徒行伝1章5節, 11章16節参照)のです。これは教会の「唯一のバプテスマ」であって(エペソ4章5節)、イエスが弟子や使徒たちに父、子、聖霊「のお方の中に浸って一つとなる」ように指示したバプテスマなのです。信者が三位一体と一体となること、すなわち「一体性」は、いかなる儀式によっても達成されるものではありません。それは神の霊によってのみ、超自然的に達成されるものであり、今ではキリストを信じる時点で達成されるのです(使徒行伝10章43-44節ローマ8章9節第二テモテ2章1節参照)。ですから、「バプテスマを授ける」ことは、私たちが救われ、キリスト(と御父と御霊)と一体となるために、御霊に浸ることによってキリスト(と御父と御霊)の中に入るという福音のメッセージを伝えることを意味し、今信者となった人たちをその対象としている「教え」と完全に一組の対となっています。 従って、ここには、弟子・使徒だけでなく、教会全体に対する「大宣教命令」、すなわち、すべての人の救いのため、また信じるすべての人の霊的成長のために働くという、この時代を通してすべての信者の本質的な任務が、簡約した形で提示されているのです。

<-70に続く>

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