イエス・キリストの生涯-45
聖書の基本4
ロバート・D・ルギンビル博士著
キリストの七つの裁判<ii>:
ゴルゴダの前の最後の数時間、肉体的な苦しみに加え、強烈な恨みと怒りにふける誘惑に耐え、すべての人から拒絶され、見捨てられ、罵倒された主が、十字架の前に耐え忍ばれた精神的な苦しみを、私たちはおそらく完全に理解することはできないでしょう。これに、世の罪のために死ぬという主の予期を加えると、ゲッセマネの園での祈りが示すように、他のあらゆる苦難とは比較にならないほど重大なものであり、それらの他の事柄については、祈りの中で言及さえされていないほどです。(すなわち、十字架上での罪のための死が、主の言われていた「杯」のことです。) とはいえ、主の「受難」のこの部分を考えるとき、キリストが十字架の前に受け、預言されたキリストの屈辱からなるこれらすべてのことが、私たちの罪を償うものではなかったことを理解することは、私たちクリスチャンを自称する者にとって絶対的に重要です。 私たちの主イエスが十字架の上で暗闇の中でさばかれたことが、これらの罪を洗い流したのであって、神の正しい視点から見れば、十字架に先立つ想像を絶する肉体的、精神的な苦しみ、つまり、こうした歴史的出来事が罪を洗ったのではなかったということです。
では、なぜイエスは、私たちの罪を「木の上でその身に負う」(第一ペテロ2章24節)十字架に至る以前に、このような試練を乗り越えなければならなかったのでしょうか。この準備段階的な苦しみは、間違いなく旧約聖書の預言の数々を成就させるものでした(使徒13章27-29節参照)。 そして悪魔は、イエスが御父に受け入れられ、私たちの罪の身代わりとして受け入れられる形で十字架に至るのを阻止するために、できる限りのことをしました。 (ヨハネ16章33節; ローマ14章9-10節; エペソ1章19b-23節; ピリピ2章9-11節; コロサイ2章15節; 黙示録5章5-14節; エペソ4章8-10節参照)[1]。 さらに言えることは、私たちの主がこの最後の試練に断固として揺るぎなく立ち向かわれたことは、私たち、そして全世界に対する主の限りない愛を鮮明に示す役割を果たしているということです。
過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。(ヨハネ13章1節)
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3章16節)
しかし、サタンが私たちの主を物理的に阻止することでもないかぎり(サタンには明らかに許されなかったこと)、どんなに辛く、痛く、感情的、肉体的に灼熱のものであっても、また痛みと屈辱の試練を乗り越えた先に待っていたのが、私たちが地上でおぼろげにも理解することのできないような、とてつもなく不可能で恐ろしいこと、つまり、私たちの罪のために、そして全世界の罪のために裁きを受け、死んでいくことであっても、父の御心を最後まで遂行することを止めることはできませんでした。重要なことすべてにおいてそうであるように、イエスは私たちの模範であり、イエスがされたように、私たちも自分の十字架を背負い、神が私たちの前に置かれたことは何でも行うべきなのです。
しかし、私たちのすることがどのようなものであれ、イエスが経験されたことに及ぶようなことはなく、私たちが直面する試練のあとには、たとえ来たる大艱難期の中で殉教が私たちの運命であったとしても、私たちの主がなされた究極の犠牲のようなものを受けるのではなく、それ以上の苦しみから解放され、主と主の模範に従い、「キリストの苦しみを分かち合う 」ことで、「よくやった」と言っていただき、第三の天国ではキリストのみ前に立つことになるのです。(第一ペテロ4章13節。 参照. ローマ8章17節; 第二コリント1章5節; ピリピ3章10節; コロサイ1章24節参照)こと
(52:13)見よ、わがしもべは栄える。彼は高められ、あげられ、ひじょうに高くなる。(14)多くの人が彼に驚いたように――彼の顔だちは、そこなわれて人と異なり、その姿は人の子と異なっていたからである(劣っていたからである)――(15)彼は多くの国民(異邦人)を驚かす(救いを施す)。王たちは彼のゆえに口をつむぐ。それは彼ら(異邦人)がまだ伝えられなかったことを見、まだ聞かなかったことを悟るからだ。(53:1)[しかし]だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕(すなわち、メシア)は、だれにあらわれたか。(2)彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき[特別な]美しさもない。(3)彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。(4)まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。(5)しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼は[神と和解するために、わたしたちに代わって]みずから懲しめ[必要な罰]をうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。(6)われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。(7)彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。(8)彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。(9)彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。(10)しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。(11)彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する(その生涯に与えられた悩みから解放され再び命の光を見て、満足する)。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。(12)それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。(イザヤ52章13節-53章12節)
[1] 「来たる艱難期 第2部B「天の前奏曲」II[b]「勝利を得た小羊」参照。
<-46に続く>