イエス・キリストの生涯-26

イエス・キリストの生涯-26

聖書の基本4

https://ichthys.com/4A-Christo.htm

ロバート・D・ルギンビル博士著

h.  正式な宣教の開始<i>:

                1) ヨハネのバプテスマ: 

(13)そこで御使が彼に言った、「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈が聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい。(14)彼はあなたに喜びと楽しみとをもたらし、多くの人々もその誕生を喜ぶであろう。(15)彼は主のみまえに大いなる者となり、ぶどう酒や強い酒をいっさい飲まず、母の胎内にいる時からすでに聖霊に満たされており、(16)そして、イスラエルの多くの子らを、主なる彼らの神に立ち帰らせるであろう。(17)彼はエリヤの霊と力とをもって、みまえに先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう」。(ルカ1章13-17節)

上記の箇所からよくわかるように、ヨハネの宣教の目的は、メシアの到来が間近に迫っていることに対して、同胞の心を整えることでした(参照:マラキ3章1節; ルカ1章76-77節)。 ヨハネは王の前触れであり、イエスは王ご自身です。ですから、イエスのバプテスマの目的は、ヨハネが王国の到来を告げたときに悔い改めることを選んだイスラエルの人々のバプテスマとはまったく異なります。彼らは罪人でしたが、イエスは罪のない方です。彼らは王を待ち望んでいましたが、イエスは王です。彼らはイエスなしでは無力でした。イエスは彼らの助けであり、今日の私たちの助けでもあります。ですから、ヨハネがイエスにバプテスマを施すのをためらったこと(マタイ3章14節)はよく理解できます。私たちの主は、「今、これを許しなさい。 すべての義を全うするために、私たちがこのように[行動する]ことは適切だから。」と答えられました。ヨハネが正しく見抜いたように、イエスはバプテスマを受ける必要はありませんでした。主は罪のない方ですから、悔い改める必要などなかったのです。イエスのバプテスマは独特であり、十字架を受け入れたことを示しています。他の人々が象徴的に罪を洗い流すために水の中に入った後、主はその罪のために象徴的に死ぬために同じ水の中に入りました。主のバプテスマは、御父の正しい救いの条件を満たすこと、すなわち 「すべての(父なる神の)義を満たすこと 」を表しているのです。(すなわち、キリストの血による私たちのすべての罪の贖い、私たちの代わりに[霊的に]死んでくださった十字架上の御業を表しています)。イエスが水から上がること(主が水の中に入ることが私たちの代わりに霊的に死ぬことを表しているのと同じように、イエスの復活を表しています)は、イエスがメシアであること(私たちが見てきたように、生まれたときから聖霊に包まれていること)を示すと同時に、イエスが栄光を受けた後に私たちにも与えられる聖霊の賜物を表すものとして、聖霊が目に見える形で現れることを伴っています(ヨハネ7章39節)。

<-27に続く>

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