聖書の基本4
イエス・キリストの生涯-24
聖書の基本4
ロバート・D・ルギンビル博士著
g. 初期の生活と宣教の準備<ii>:
また、主がわずか十二歳の時までに、御言葉の理解がエルサレムの高名な学者たちよりも明らかに何光年も進んでいたにもかかわらず、宣教の務めを始める前に、さらに十八年間の準備を受けなければならなかったことも、大きな意義があります。彼が直面した任務の重要性、前途の試練をうまく切り抜けるために必要な準備の度合いの大きさは、それほどのものだったのです。
上述したように、聖句は、イエスはその人間性において、私たちすべてに立ちはだかる通常の試練、誘惑、義務から免除されなかったことを非常に明確にしています(参照:イザヤ52章13-53節12節; 第二コリント8章9節; ピリピ2章5-8節; ヘブル2章5-18節, 4章15節, 5章7-10節)。 (人類一般ではそのように認識されていなくても)疑いなく、これは、人類の生活において最も重要な側面を意味します。つまり、霊的な成長、霊的な成熟、人間に啓示された神の知恵と箴言のすべてを深く完全に理解することは、銀の皿に盛られて差し出されたものではありませんでした。主も私たちと同じように真理を学び、霊的に成長しなければなりませんでしたが、主は実際に、完全な方法で、完全な程度まで成長されたのです。 霊的成長とは、神の御言葉の真理を求め、学び、信じ、実践する(意識的に考え、話し、行動する)プロセスであり、聖書に示された真理のすべてを完全に理解し、主が完璧に習得することを、成し遂げられたように、完全に成熟した精神状態になるために必要な尺度です。主がそれをするには、約三十年かかりました(その準備には、彼の宣教に必要な準備期間も含まれます。これについては以下を参照)。 私たちの主は、罪深い時間の浪費には決して関与されず、さらに重要なことは、主がこの世に遣わされ、来られた目的に徹底的に専心され、御父への愛が主のすべての思考と行動を支配されたということです。 そのため、霊的に完全に成熟するという個人的に不可欠な準備を成し遂げることは、主にとって「第一の仕事」であり、しかも、ちょうどよいタイミングで完了しなければならない仕事でした。 私たちの主イエス・キリストは、一分一秒の猶予もなく、幼い頃から霊的に成長するための仕事に取りかかり、わずか12歳の時までに、私たちのほとんどが達成することが到底できない洞察力を身につけました。(私たちがその事実を十分に理解しているかどうかは別として)人間に対する神の最も崇高な使命を開始する前に、さらに十八年間の集中的な「卒業研究」が必要であったことは、この最後の三年半が彼にとってどれほど困難であったかを示しています。
ですから「イエスはどのように成長されたのか?」と問うことは、公平であり、また実に重要な質問です。特に、12歳の時のイエスの霊的成熟度は、これまで生きてきたすべての信徒とは言わないまでも、ほとんどの信徒を凌駕していたことは明らかだからです。 ケノーシスの原則(上記Ⅰ.5.e節参照)とは、イエスがある種の「不公平な優位性」を持っていたのではなく、私たち皆と全く同じように霊的に成長しなければならなかったことを意味します。神の子として、罪の性質を持たず、誕生した瞬間から聖霊によって無限の力を授けられ、預言者としてふさわしい立場にあったイエスが享受した利点は、この世での生涯を通じて直面した悪魔の異常なまでの敵対や、私たちすべてを救うために遣わされた使命の信じられないほどの困難さによって、十分に相殺されました。それは、御父に完全に献身し、完璧で罪のない人生を送りながら、霊的に完璧に成長することだけでなく、十字架にかかる前のミニストリーを完璧に行い、十字架にかかるために最も恐ろしい反対勢力の試練を乗り越え、天と地の間の暗闇の中でそこに架けられて世の罪を背負うことも、彼の挑戦だったからです。
イエスの先駆者である洗礼者ヨハネについて、彼は「母の胎内から聖霊に満たされる」(すなわち、誕生の瞬間から;ルカ1章15節)と預言されていました。 そして、彼が予告したメシヤもそうであったことは確かでしょう(ミカ3章8節; 参照. マタイ3章11節, 3章16節, 4章1節, 12章28節, 12章31-32節; マルコ1章8-12節, 3章29節; ルカ3章16節, 3章22節, 4章1節, 4章14節, 4章18節, 11章13節, 12章10節; ヨハネ1章32-33節; 7章39節, 14章26節, 15章26節, 16章15節)。
(2)その(メシアの)上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。(イザヤ11章2節)
(17)これは預言者イザヤの言った言葉が、成就するためである、 (18)「見よ、わたしが選んだ僕、わたしの心にかなう、愛する者。わたしは彼にわたしの霊を授け、そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう。(マタイ12章17-18節)
(34)神がおつかわしになったかたは、神の言葉を語る。神は聖霊を限りなく賜うからである。 (35)父は御子を愛して、万物をその手にお与えになった。(ヨハネ3章34-35節)(参照:ヨハネ6章63節)
わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。それに七つの角と七つの目とがあった。これらの目は、全世界につかわされた、神の七つの霊である。(黙示録5章6節)
ヨハネ7章39節にあるように、普遍的な聖霊のバプテスマは、勝利した御子への御父からの賜物であり、すべての信者に聖霊が注がれたのは十字架後の最初の聖霊降臨の日からでした。 しかし、私たちの主は「限りなく」(ヨハネ3章34節)御霊を持っておられ、主の誕生の瞬間から満たされておられました。 このように、私たちの主の驚異的な霊的成長は、彼が何か特別な、あるいは秘密のアクセス権を持っていたことによるものではありません。 私たちもまた、無制限に与えられた御霊を持っています。御霊は今、私たち皆の中にも宿っておられ(ローマ8章9節; 第二テモテ1章14節)、その結果、私たちはまさに「キリストの心」(第一コリント2章16節; すなわち、聖句の真理を照らす御霊の内住であり、私たちがそれを追い求めようとするなら、そのすべてにアクセスできるのです。)を持っています。違いは、私たちの主イエスが、この素晴らしい助け手を完全に活用し、父が望まれた通りの学び方、成長の仕方、生き方を常に完璧に実践されたということです。なぜなら、イエス・キリストにおいてのみ、この無限の聖霊の力が完璧に応答したからです。
<-25に続く>