イエス・キリストの独自性-b
聖書の基本4A-15
ロバート・D・ルギンビル博士著
b. その独自性は、イエスが神であり人であることによってのみ、私たちの罪を負う者、十字架上で私たちの罪の罰を受ける者となることができたという事実です(マタイ16章21節, 17章12節,マルコ8章31節, 9章12節; ルカ9章22節, 17章25節, 22章15節, 24章26節, 24章46節; 使徒行伝1章3節, 3章18節, 17章3節, 26章23節; ローマ8章17節; 第二コリント1章5節; ピリピ3章10節; 第一ペテロ4章1節):
わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。(詩篇22篇1節a)
(3)彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。(4)まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。(5)しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安(神との平和)を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。(イザヤ53章3-5節)
(9)ただ、「しばらくの[短い]間、御使たちよりも低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光とほまれとを冠として与えられたのを見る。それは、彼が神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれるためであった。(10)なぜなら、万物の帰すべきかた、万物を造られたかたが、多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救の君[私たちの主イエス・キリスト]を、苦難をとおして全うされたのは、彼にふさわしいことであったからである。(ヘブル2章9-10節)
主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである。(ヘブル2章18節)
この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。 (ヘブル4章15節)
(7)[わたしたちの大祭司である]キリストは、その肉の生活の時(すなわち、 復活の前に地上におられたとき)には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。(8)彼は[神の唯一の]御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって[神への]従順(すなわち,人間が[神への]従順になるには何が必要か)を学び、(9)そして、全き者とされた(すなわち、ご自分の歩みを完全に終えた)ので、彼に従順であるすべての人(すなわち、信者)に対して、永遠の救の源となり、(ヘブル5章7-9節)
だから、イエスもまた、ご自分の血で民をきよめるために、門の外で苦難(すなわち、十字架上の死)を受けられたのである。(ヘブル13章12節)
あなたがたは、実に、そうするように(キリストの苦しみを分かち合うように)と召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。 キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。 ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。(第一ペテロ2章21-23節)
むしろ、キリストの苦しみに[本当に]あずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。(第一ペテロ4章13節)
<-16に続く>