神の約束と預言の成就のため

神の約束と預言の成就のため

聖書の基本4A-11

https://ichthys.com/4A-Christo.htm

ロバート・D・ルギンビル博士著

c. キリストが真の人間性を帯びることは、神の与えておられた約束と預言を成就するために必要でした: 私たちに対するすべての神の約束の成就に関しても、私たちの主は真の人間性を帯びることが必要でした。 私たちに対する神の約束はすべて、イエス・キリストにおける究極的な救いの約束にかかっているからです。

わたしは言う、キリストは神の真実を明らかにするために、割礼のある者の僕となられた。それは父祖たちの受けた約束(すなわち、契約)を保証すると共に、 異邦人もあわれみ(すなわち、イエスによる救いの提供)を受けて神をあがめるようになるためである…(ローマ15章8-9節b)

なぜなら、神の約束はことごとく、彼において「しかり」となったからである。だから、わたしたちは、彼によって「アァメン」と唱えて、神に栄光を帰するのである。(第二コリント1章20節)

神の約束は豊かであり、決して失敗することはありません(ヨシュア21章45節; ローマ9章6節; テトス1章2節; ヘブル13章5-6節)。 神の約束はすべて、イエスが私たちのためにしてくださったことに基づいています。あらゆる種類の恵みは、十字架上でのキリストの御業の結果なのです(ローマ3章24節, 5章15-21節; エペソ2章5-8節; テトス3章7節; ヨハネ1章16-17節参照)。 もしここで神の御言葉の約束のすべてを述べようとしたら、時間がいくらあっても足りません(ヨハネ21章25節; ヘブル11章32節~参照)。なぜなら、聖書のどのページにも約束があるからです。ここで私たちに関係するのは、神であると同時に人でなければならない、しかし、真の人でなければならないというみ言葉の約束、予告、預言が、私たちの主の受肉とどのように関係しているかということです。こうした条件を必要とする、三つの特定の約束の領域に焦点を当ててみましょう:  1) モーセよりも偉大な預言者であり、その言葉は救いに導く完全なものであるという約束を果たすこと、2) 罪を清める犠牲を象徴する以上のことは、すべてのどの祭司にもできなかったので、これまでの大祭司よりも偉大な祭司の約束を果たすこと。 3) 永遠に統治する王としての約束を果たすこと、ダビデの子孫がダビデよりも偉大になり、ダビデの主ともなること。真の神でありながら、真の人間性を身にまとってこの世に来られたイエス・キリストによってのみ、これらの約束は完全に実現します。それぞれは、神の救済計画における三つの重要な側面を表しています。すなわち、預言によって告げられ、祭司の犠牲によって実現し、メシアの到来によってその祝福がすべて実現するというものです。

1) イエスは来るべき預言者の約束を成就し、神の預言的啓示である救いのメッセージ全体を御自身のうちに体現されます(イエスは預言者です):

(15)あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞のうちから、わたしのようなひとりの預言者(すなわち、主イエス・キリスト)をあなたのために起されるであろう。あなたがたは彼に聞き従わなければならない。(16)これはあなたが集会の日にホレブ(=シナイ)であなたの神、主に求めたことである。すなわちあなたは『わたしが死ぬことのないようにわたしの神、主の声を二度とわたしに聞かせないでください。またこの大いなる火を二度と見させないでください』と言った。(17)主はわたしに言われた、『彼らが言ったことは正しい。(18)わたしは彼らの同胞のうちから、おまえのようなひとりの預言者を彼らのために起して、わたしの言葉をその口に授けよう。彼はわたしが命じることを、ことごとく彼らに告げるであろう。(19)彼がわたしの名によって、わたしの言葉を語るのに、もしこれに聞き従わない者があるならば、わたしはそれを罰するであろう(すなわち、救いを拒んだ責任を負わせる)。(申命記18章15-19節)

このピリポがナタナエルに出会って言った、「わたしたちは、モーセが律法の中にしるしており、預言者たちが(も)しるしていた人、ヨセフの子、ナザレのイエスにいま出会った」。(ヨハネ1章45節)

もし、あなたがたがモーセを信じたならば、わたしをも信じたであろう。モーセは、わたしについて書いたのである。 しかし、モーセの書いたものを信じないならば、どうしてわたしの言葉を信じるだろうか」。(ヨハネ5章46-47節)

人々はイエスのなさったこのしるしを見て、「ほんとうに、この人こそ世にきたるべき預言者である」と言った。(ヨハネ6章14節)(マタイ21章11節; ヨハネ7章40節参照)

(19)だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。(20)それは、主のみ前から慰めの時がきて、あなたがたのためにあらかじめ定めてあったキリストなるイエスを、神がつかわして下さるためである。(21)このイエスは、神が聖なる預言者たちの口をとおして、昔から預言しておられた万物更新の時まで、天にとどめておかれねばならなかった。(22)モーセは言った、『主なる神は、わたしをお立てになったように、あなたがたの兄弟の中から、ひとりの預言者をお立てになるであろう。(使徒行伝3章19節-22節b)(使徒行伝7章37節参照)

預言者たちは神の言葉を語りましたが、イエスは神の言葉であり、聖書に預言されているこの約束と他のすべての神の約束の成就者です。

2) イエスは、「よりすぐれたいけにえ」の必要性を教え、宣べ伝えたすべての預言と儀式とともに、来るべき大祭司の約束を成就されました(イエスはメルキゼデクの位にある大祭司です):

…(私たちの)罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、(すなわち、幕の向こう側の)座につかれたのである。(ヘブル1章3節)

そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために(すなわち、ご自分の犠牲によって)、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。(ヘブル2章17節)

さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって(すなわち、幕の向こうに)行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する(イエスへの)信仰をかたく守ろうではないか。(ヘブル4章14節)

(19)この望みは、わたしたちにとって、いわば、たましいを安全にし不動にする[希望の]錨であり、かつ「幕(すなわち、天)の内(すなわち、天の聖所)」にはいり行かせるものである。(20)その幕の内に、イエスは、永遠にメルキゼデクに等しい大祭司として、わたしたちのためにさきがけとなって、はいられたのである。(ヘブル6章19-20節)

(23)かつ、死ということがあるために、務を続けることができないので、[必然的に]多くの人々が祭司に立てられるのである。(24)しかし彼(イエス・キリスト)は、永遠にいますかたであるので、変らない祭司の務を持ちつづけておられるのである。(25)そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。(26)このように、聖にして、悪も汚れもなく、罪人とは区別され、かつ、もろもろの天よりも高くされて[神の御前に]いる大祭司こそ、わたしたちにとってふさわしいかたである。(27)彼[イエス]は、ほかの[人間の]大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、いけにえをささげる必要はない。なぜなら、[イエスは]自分をささげて、一度だけ、それをされたからである。(ヘブル7章23-27節)

(1)以上述べたことの要点は、このような[驚くべき]大祭司がわたしたちのためにおられ、天にあって大能者の御座の右に[実際に]座し、(2)人間によらず主によって設けられた真の幕屋なる聖所で仕えておられる、ということである。(3)おおよそ、大祭司が立てられるのは、供え物やいけにえをささげるためにほかならない。したがって、この大祭司もまた、何かささぐべき物を持っておられねばならない。(4)そこで、もし彼が地上におられ[仕えてい]たなら、[モーセの]律法にしたがって供え物をささげる祭司たちが、現にいるのだから、彼は祭司ではあり得なかったであろう。(5)彼らは、天にある聖所のひな型と影とに仕えている者にすぎない。それについては、モーセが幕屋を建てようとしたとき、御告げを受け、「山(=シナイ)で示された型どおりに、注意してそのいっさいを作りなさい」と言われたのである。(ヘブル8章1-5節)

しかしキリストがすでに現れた祝福の[真の]大祭司として[天に]こられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋[の幕]をとおり、 かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血(すなわち、御自身の死)によって、一度だけ[天の]聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。(ヘブル9章11-12節)

(23)このように(すなわち、動物の血がわたしたちを罪からきよめることができないように)、天にあるもののひな型は、これらの[地上の]ものできよめられる必要があるが、天にあるものは、これらより更にすぐれたいけにえで、きよめられねばならない。(24)ところが、キリストは、ほんとうのものの模型にすぎない、手で造った聖所にはいらないで、上なる天にはいり、今やわたしたちのために神のみまえに出て下さったのである。(ヘブル9章23-24節)

祭司は神に奉仕しますが、メルキゼデクの位の大祭司の約束を成就し、究極の犠牲の供物として自らを捧げることができるのは、人間性をもったイエス・キリストのだけです。

3) イエスは、王の約束とメシヤ王国のすべての預言を成就されます(イエスこそ王です):

また前のように、わたしがわたしの民イスラエルの上にさばきづかさを立てた日からこのかたのように、悪人が重ねてこれを悩ますことはない。わたしはあなたのもろもろの敵を打ち退けて、あなたに安息を与えるであろう。主はまた「あなたのために家を造る」と仰せられる。 あなたが日が満ちて、先祖たちと共に眠る時、わたしはあなたの身から出る子を、あなたのあとに立てて、その王国を堅くするであろう。(サムエル下 7章11-12節)

(12)彼に言いなさい、『万軍の主は、こう仰せられる、見よ、その名(すなわち、メシア:イザヤ4章2節, 11章1節, 53章2節; ゼカリヤ3章8節)を枝という人がある。彼は自分の場所で成長して、主の宮を建てる。(13)すなわち彼は主の宮を建て、王としての光栄を帯び、その位に座して治める。その位のかたわらに、ひとりの祭司がいて、このふたりの間に平和の一致がある』。(ゼカリヤ6章12-13節)

イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、 「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方(私たちの住んでいる所)でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。(マタイ2章1-2節)

(37)いよいよオリブ山の下り道あたりに近づかれると、大ぜいの弟子たちはみな喜んで、彼らが見たすべての力あるみわざについて、声高らかに神をさんびして言いはじめた、(38)「主の御名によってきたる王に、祝福あれ…」。(ルカ19章37-38節b)(ヨハネ12章13節参照)

ナタナエルは答えた、「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」。(ヨハネ1章49節)

そこでピラトはイエスに言った、「それでは、あなたは王なのだな」。イエスは答えられた、「あなたの言うとおり、わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」。(ヨハネ8章37節)

彼らは小羊に戦いをいどんでくるが、小羊は、主の主、王の王であるから、彼らにうち勝つ。また、小羊と共にいる召された、選ばれた、忠実な者たちも、勝利を得る」。(黙示録 17章14節)

その着物にも、そのももにも、「王の王、主の主」という名がしるされていた。(黙示録19章16節)

王は神の代わりに統治しますが、神が栄光のうちに再臨される時、神の御子だけが、全世界を統治する神の摂政となる資格があるのです。

<-12に続く>

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