聖書の基本4A-3
神として礼拝されるイエス
b. イエスは神として礼拝されています[1](参照:ゼカリヤ14章16-17節; マタイ2章2節, 2章11節, 14章33節, 28章9節, 28章17節; イザヤ6章3節とヨハネ12章41節を比較, ヨハネ20章28節; ヘブル1章6節; コロサイ1章13-16節と黙示録14章7節を比較):
(50)それから、イエスは彼らをベタニヤの近くまで連れて行き、手をあげて彼らを祝福された。(51)祝福しておられるうちに、彼らを離れて、〔天にあげられた。〕(52)彼らは〔イエスを拝し、〕非常な喜びをもってエルサレムに帰り、(ルカ24章50-52章)
すると彼は、「主よ、信じます」と言って、イエスを拝した。 (ヨハネ9章38節)
(9)それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。(10)それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、(11)また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。(ピリピ2章9-11節)
(11)さらに見ていると、御座と生き物と長老たちとのまわりに、多くの御使たちの声が上がるのを聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍もあって、(12)大声で叫んでいた、「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」。(13)またわたしは、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた、「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように」。(14)四つの生き物はアァメンと唱え、長老たちはひれ伏して礼拝した。(黙示録5章11-14節)
<-4に続く>
[1] 上記の聖書新約聖書の節におけるギリシャ語の「礼拝」は、動詞プロシキネーオ(προσκυνέω)であり、引用されたすべての箇所において、(使徒行伝10章25-26節、黙示録19章10節、22章8-9節からも明らかなように)英語で「worship(礼拝)」が神に対してのみ使用される「礼拝」という同様の意味を持っています。