発見!-1
私の村にまだ小学校があったころ、村を囲むふるさとの山を見て、思いました。あの山の向こうには、何があるんだろう?と。小学三、四年生だったと思います。ある日、決意して山の向こう側を見ようと思ったのです。自分にとっては大きな冒険でした。その一番高い所まで上り詰めた後、その反対側の斜面に回りました。そこから見えたものは、自分が上ったのと似たような山がまた向こうにあったことでした。大した発見でもなかったのですが、少なくとも、私は、その山の向こうに何があったかわかったのです。
これは、私の小さい冊子に「道」というタイトルで書いたことですが、私は人生の目的、つまり何のために人は生きているのか?という問いに対する答えが知りたくて、本を読んだり、友人や人、先生に尋ねたりして歩いたものです。中学、高校の時期です。ついに、私は、自分を教えてくれる師を探しに家出するに至りました。高校三年の時、一人で北海道を歩きました。特に誰に遭ったというわけではありませんでしたが、神を体験したような、愛を感じたような経験をしてかえってきたことがあります。
そして大学の聖書研究部にはいって、聖書の中に答えがあることがわかったのです。自分には、すべての罪を赦してくれるほどの方がいた、しかもその方は神であられたということです。
その後も、宣教師になって、二歳くらいになった息子とある千葉の海岸に立っていた時、息子に海の向こうにパパは宣教師として行くことを語っていたことを思い出します。
以来、海外の様々な国に行き、人と話し、生活し、一つわかったことは、どこの国の人も同じ人、つまり聖書で言っている神様が造られた存在であり、完璧ではなく、地上では悩みをかかえて、生きているということを自分なりに発見しました。
今、何か素晴らしいもの、宝のような価値あるものの発見は、どこかの遠くの国でも、また、何か人の造り上げたものでも、テーマ・パークでも、どんな組織でもない、またどこか特別な人でもないと、結論に至っています。造られたものは不完全であり、人を含めてすべての被造物は罪の下にうめいています。
目下、私にとっての素晴らしい発見は、真理の宝の発見です。それは聖書の中にある真理であり、それに生きることによって下る神よりの祝福、そして神の呼び出しに応えて従う時、神様ご自身と近くにあれるのです。
神様は、探し求めることを無駄だとは言っておられません。神様は私たちの求める心に応えて下さる方です。
求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。 (マタイ 7章7-8節)
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。(マタイ 5章6節)
あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、 (エレミヤ29章13節)