今も生きている
今朝、明け方に息子と一緒に車に乗り込み、千葉の葬儀の場所に向かっている途中です。何度も私たちの小さな村を訪れ、ボランティアをしてくれた学生たちの一人S君の葬儀に参列するためです。
明るくなってくると、青空に普段見慣れない白とグレイの雲が青空を背景に広がっています。これはきっと今日本に接近しているという台風の影響でできた雲なのでしょう。最初の予報からはずっと南の方にそれて、九州地方を直撃するということですが、そんなに離れていても、やはり空は一つ。向こうの空とこちらの空はつながっている。そんなことを考えて、九州にいる知人、友人のために、お祈りしていました。
肉体を離れて、向こうに行ったS君も、離れていてもかえって彼がいつも微笑んでいたこと、何か寂しい人や助けが必要な人がいると真っ先に気づいて寄り添う人であったことや、彼との懐かしい思い出を、運転してくれている息子と話しました。記憶が生きて蘇るということは、私たちの心の中でその本人が生きているようにも思えるものです。
S君のおかげで、久しぶりに息子とこうした東京方面への長旅をすることができています。色々な深いことを分け合うことができました。そういう面でもS君は、ここにいてくれている感じがします。なぜなら彼がいるところにはいつも和やかで、心を打ち明けることができるような雰囲気をもたらすタイプの人だったからです。
S君はそうした病の中、彼の親友たちと共に、去年もっと回復してきたということで、私たちのところを訪ねてきてくれていました。
死は終わりではない、ということは聖書のメッセージです。彼らの生き方は、私たちまだ地上にいる者達にとっての証であり、彼らは今も神の御前で生きて、全てが新しくなるのを待っているのです。
こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。 信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。 (へブル12章1-2節)
小羊が第五の封印を解いた時、神の言のゆえに、また、そのあかしを立てたために、殺された人々の霊魂が、祭壇の下にいるのを、わたしは見た。彼らは大声で叫んで言った、「聖なる、まことなる主よ。いつまであなたは、さばくことをなさらず、また地に住む者に対して、わたしたちの血の報復をなさらないのですか」。 (黙示録 6章10節)
金持ちとラザロの話(ルカ16章19-31節)といい、この黙示録6章のあかしのゆえに殺された人々の霊魂であれ、彼らはまだ生きて質問をし、答えを得るという会話をしています。彼らの霊は死んではおらず、生きているのです。
神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである」。 (ルカ20章38節)
そして神に対して生きているすべての人は、それぞれの行いと信仰に応じて、神に報いていただくのです。もう地上での苦しみから解放されて卒業した愛する者の魂は、最善のお取り計らいをしてくださる愛の神である主の御手にゆだねて、先の聖句にあるように、まだ地上で走るべき行程がある私たちは、最後までこの競争を耐え忍んで走り抜きましょう。