眠っている時にも
ソロモンがよんだ都もうでの歌 主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。 あなたがたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである。 (詩篇127篇1-2節)
神は一つの方法によって語られ、また二つの方法によって語られるのだが、人はそれを悟らないのだ。 人々が熟睡するとき、または床にまどろむとき、夢あるいは夜の幻のうちで、 彼は人々の耳を開き、警告をもって彼らを恐れさせ、 こうして人にその悪しきわざを離れさせ、高ぶりを人から除き、 その魂を守って、墓に至らせず、その命を守って、つるぎに滅びないようにされる。 人はまたその床の上で痛みによって懲らされ、その骨に戦いが絶えることなく、 その命は、食物をいとい、その食欲は、おいしい食物をきらう。 その肉はやせ落ちて見えず、その骨は見えなかったものまでもあらわになり、 その魂は墓に近づき、その命は滅ぼす者に近づく。 もしそこに彼のためにひとりの天使があり、千のうちのひとりであって、仲保となり、人にその正しい道を示すならば、 神は彼をあわれんで言われる、『彼を救って、墓に下ることを免れさせよ、わたしはすでにあがないしろを得た。 彼の肉を幼な子の肉よりもみずみずしくならせ、彼を若い時の元気に帰らせよ』と。 その時、彼が神に祈るならば、神は彼を顧み、喜びをもって、み前にいたらせ、その救を人に告げ知らせられる。 彼は人々の前に歌って言う、『わたしは罪を犯し、正しい事を曲げた。しかしわたしに報復がなかった。 彼はわたしの魂をあがなって、墓に下らせられなかった。わたしの命は光を見ることができる』と。 見よ、神はこれらすべての事をふたたび、みたび人に行い、 その魂を墓から引き返し、彼に命の光を見させられる。(ヨブ33章14-30節)
私たちは、自分では気づかない罪について、また間違った道に入り込もうとすることについて、夢のうちに神より警告を受けたり、教え諭されたりしていることが、これらの聖句からわかります。そして罰を受けて当然の場合でも、そこに仲保者なる方、イエス・キリストの犠牲のゆえに、罰を免れるようにしていただけています。
もし、こうした神様の愛と赦しが無ければ、私たちは立っていることもできなかったでしょう。しかし、主は何度も憐れみを示され、(朝目覚めた時には夢のすべてを忘れても、自分の霊は)夢の中で教えられています。また神は病によって語られるというもう一つの方法で、私たちを神に叫び求めるようにさせ(仲保者であるイエスの犠牲により)、憐れみを示され、罪を赦され、いやされ、さらに神の偉大さを讃える者となります。
私たちを見守り、教え、成長させ、また主の御心にかなったことをする器として用いるため、数えきれないほどの恵みを私たちは受けています。主に栄光!!