備え
昨夜、私たちのいるところを通過した台風がありました。昨夜は、備えることの大切さを実感させられました。先回の大雨では、家の前の沢が氾濫したため、お隣さんや、私の娘の家が床下浸水になり、ひと騒動でした。
そのため、台風の情報に、私たちは、近所の人達も、備えて臨もうという気持ちが高まっていました。お隣さんから、一昨日の夕方、朝には、土嚢を積んでおいたほうがいいね、という連絡を受けていました。(先回、遠くから来てくれた兄弟姉妹の集いの際、参加者が流れてきた土砂を土嚢袋に入れてくれたのです。感謝です!!)。土嚢の詰まった袋は何十もあったので、以前あふれた箇所に土手を作るのに十分でした。近所の人達が、朝に出てきてくれて、作業は速やかに終わることができました。
また、今娘の家の床下に水が浸水しないように、すでに、色々作業中でしたが、まだできていなかった所には、応急処置をしました。そのため、その日もクラスをしたり、証を分かち合うことをしていましたが、私たちは、み言葉や交わりに集中することができました。すべきことは、しており、祈り、主に信頼していることができました。どうなってしまうだろう?と思いながら、雨の中、作業することは、今回ありませんでした。自分たちは、御言葉と、お互い分け合うことに集中できたのです!
終わりの時に関しても、このようなことではないかと思います。私たちは、信仰の生き方を貫くことができるように、備えが必要です。しかし「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである」(ローマ10章17節)とあるとおり、土嚢のような、御言葉の真理に生きることを日々重ねていく必要があります。諸々の警告とも思える災害の続く中で、私たちは、まず聞く、学ぶことから備えること<主の御言葉に従うこと>が必要です。
そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。 その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。 思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。 しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。 花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。 夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。 そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。 ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。 すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。 彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。 そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。 しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。 だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。 (マタイ25章1-13節) (マタイ7章24-27節も参照)
<以下は、「来たる艱難期-艱難期の始まり」第3部A176頁~の引用です:>
主のたとえ話(マタイ25章1-13節)の賢いおとめたちのように、私たちもまた、来たるべき暗い夜に信仰の灯が消えないように、まだ日のあるうちに真理の油を蓄えておかなければなりません。私たちはこの地上では巡礼者に過ぎず、シオンに向かうために毎日、一日ずつ安息日の旅をし、先人の模範に倣っていることを忘れてはなりません。
これらの人はみな、信仰をいだいて[歩みながら]死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら[全世界に]言いあらわした。 そう(信仰を)言いあらわすことによって、彼らが(今通っている世界以外の)ふるさとを求めていることを示している。 もしその出てきた所(国)のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。 しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。 (ヘブル11章13-16節)
時代の終わりが訪れようとしている者として(第一コリント10章11節)、何があろうとも主イエス・キリストに忠実であり続けようと決心した私たちは、この先に待ち受けている課題の難しさにも、救いへの道程で通過しなければならない試練の巧妙さにも、幻想を持っていてはいけないのです[1]。
もろもろの民よ、われらの神をほめよ。神をほめたたえる声を聞えさせよ。 神はわれらを生きながらえさせ、われらの足のすべるのをゆるされない。 神よ、あなたはわれらを試み、しろがねを練るように、われらを練られた。 あなたはわれらを網[牢]にひきいれ、われらの腰に重き荷を置き、 人々にわれらの頭の上を乗り越えさせられた。われらは火の中、水の中を通った。しかしあなたはわれらを広い所[救いの場]に導き出された。 (詩篇 66篇8-12節)[2]
あらしが通りすぎる時、悪しき者は、もはや、いなくなり、正しい者は永久に堅く立てられる。 (箴言 10章25節)
悪しき者はその悪しき行いによって滅ぼされ、正しい者はその正しきによって、のがれ場を得る。(箴言 14章32節)
また、ある者たち(=出エジプト世代)がしたように、わたしたちは主を試みてはならない。主を試みた者は、へびに殺された。 また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはならない。つぶやいた者は、「死の使」に滅ぼされた。 これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいる(=艱難の入り口にある)わたしたちに対する(同じような背教に陥らないようにとの)訓戒のためである。 だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。(第一コリント10章9-12節)
<引用終わり>
[1] こうした困難の概要については、「来たる艱難期」第1部「はじめに」III「艱難期の一般的性質」参照
[2] 詩篇66篇は全体として、メシヤの再臨のための勝利の詩篇として預言的に適用されています(ここで引用されている箇所は、忠実な信徒たちが解放された苦難に焦点を当てています)。