試練の中での気づき

試練の中での気づき

娘の改築したばかりの家の床下浸水… と言ってもその水が数センチで済んだということ、しかもその泥水は汚水の混じったものではなかったということも、不幸中の幸いというものです。もっとひどい被害に遭うこともできたと思うと、主の憐れみとしか言いようがありません。この床の空気取り入れ口から何か大雨に遭った時には水が流れ込んでくるかもしれないということについては、初めから、娘と話していたことでした。娘も、それに同意してはいたものの、後延ばしにしていたのです(私も、それに対してもっと何かできたと思います)。娘は、「わかっていたけど、やってなかったから、こうなってしまった」ともっと真剣に取り組むべきだったことを話していました。(床下がすぐに乾くように、お祈りしていて下さい。ありがとうございます)

 この気づき、つまり自分の至らなかったことについての気づきこそ、ローマ8章28節の一つではないか、と私は思います。神様がいかに何か月も待っていて下さっていたかを考えると、神様の忍耐がわかりますし、またこの程度で済んだことも神様の愛です。

 このことを考えていた時、大切な教訓のこもった一つの話を思い出しました。

 子供達が川で筏(イカダ)に乗って遊んでいた話です。子供達は、皆、筏乗りに夢中です。竿(さお)を使って筏を操るのに夢中です。しかし岸には、大声で「危ないぞ、その先には滝つぼがあるぞ」と叫んで注意する人がいます。しかし、夢中になって遊んでいる子供達は、「あの人、何言ってる?」「危ない、とか叫んでるよ」と。しかし、川の流れの音と、今夢中になっていることの興奮に、こうした話はかき消されてしまいます。そして自分たちが向かっている滝つぼに気づいた時には、もう川岸にたどり着くことはできないという事態…。

 これは、世界が人類史において、もっとも困難な時期を迎えようとしている際の分かりやすいたとえ話であると思います。私たちクリスチャンは「かつてなく、今後もないような大艱難期を通過するようになる」というイエス様の警告を知っています。しかし、それに対して注意を払う者が少ないのです。いつものマンネリ化してしまった行事や世の煩いで忙しくて、神様が私たちに真剣に取り組んでほしいと思っていることについては、十分な注意を払うことはせず、まして主が自分に行わせたいことを行うということについては、時間も余裕もないという状態ではないかと思います。黙示録3章にあるラオデキヤ教会の思考停止状態、あるいはなまぬるいため、自分では考えることも、信仰によって導きを得ることもできないゾンビー化現象が起こっている恐れがあります。

 誰でも何かはしています。何らかの団体に属してはいます。しかしだからといって神の目によしであるかどうかは、カインとその弟アベルのことを考えるなら、明らかなことです。カインも一生懸命働いて、神に自分の収穫をささげたのです。しかし彼は神の望まれたものではなく、自分の目に良いと思ったことをしたのです。一方アベルは、神が言われたことをしたのです。その結果、カインの捧げものは、神に受け入れられず、カインはアベルを殺してしまいました。

信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。 (ヘブル 11章4節)

カインのようになってはいけない。彼は悪しき者から出て、その兄弟を殺したのである。なぜ兄弟を殺したのか。彼のわざが悪く、その兄弟のわざは正しかったからである。 (第一ヨハネ3章12節)

ただ聞くだけのものとなってはいけない、という次の神のメッセージに耳を傾ける必要があります。

 それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。 また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。 (マタイ7章24-27節)

 私たちは、聖書に書かれている預言の言葉に注意を払っているか、そして御霊の導きに注意を払っているか、そして導きに従ってすべきことをしているか、自分の至らなさに気づいて、行う者となれますように。

 主イエスよ、私たちが御霊の語り掛けに鈍感なものになることがないように助けて下さい。あなたの語り掛けに十分に注意を払い、またあなたに語られても、従っていないことに気づくことができますように。そして悔い改めて行う者となれますように、どうか助けてください。いろいろな試練を通してでも、気づきを与えようとしておられること、感謝します。御名が讃えられますように。

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