求め続ける者
<昨日の「完成めざして」に付け加えて>
私たちは、知識においても、生き方においてもいろいろな面で、不完全です。
「もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない。」(第一コリント8章2節)
「なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。」(第一コリント13章9節)
天に召していただいた時、主とお会いした時、きっと「そうだったのか…」と思うことは沢山あると思います。
「わたしたちは、今は、<当時のぼやけた>鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。」(第一コリント13章12節)
これは、地球や宇宙がどうなっているかという知識だけではなく、イエス様についていき、イエスのくびきを負い、イエスのようになると召されている、私たちの日々の生き方についても、完璧さからいうと、達したと言えるわけではありません。私たちはこの地上に送られて良いわざをするようにと備えられているものの、その神様の御計画と召しを果たすか、どうかという選択は日々のものです。「命を惜しまず」「最後までついていく」ということは、主の日に主にお会いする時か、自分の時が来て地上を去る時まで続くわけです。
すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、 なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。 わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。 兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。 だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。しかし、あなたがたが違った考えを持っているなら、神はそのことも示して下さるであろう。 ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである。 (ピリピ3章10-16節)
この上の節の前には、
「わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。」 (ピリピ3章8-9節)とあります。当時の宗教的規制、律法を守ることによって義とされていると思いこむことは、今も、規則や作り上げられた価値観に依存していれば、大丈夫だろうというような隠れ蓑に頼るような考えが人にはあると思います。無意識に全体がそう言っているから、教義がそうだからそうなんだ、それに対して違うことを言うと周りから何と言われてしまうかわからないから、ただ黙っていようという思いが働いてしまうのがよくあると思います。
もし、何かわからないと思えることがあったら、御言葉を調べ、祈って主に尋ねることが必要です。主は飢え渇く者の願いに答えられます。
求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。(マタイ7章7-8節)
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。 (マタイ5章6節)
生き方にしろ、(神を知る)知識にしろ、常に飢え渇きをもって求めていきたいものです。