完成めざして
それぞれ人は、完成を目指して励んでいるところがあると思います。それが医療関係の人であれ、飲食店のサービス業であれ、またスポーツの選手であれ。苦しい経験、訓練を通して人は、そこに至ります。
無駄のない動き、軽やかさ、一貫性… その人の練達ぶりから、「完成」を感じます。
これは信仰の道に導き入れられた私たちにも言えることですが、キリストを信じる信仰者の完成は、この世の人達のものと異なるところがあります。
私たちの完成は、イエス・キリストのようになることであり、信仰者それぞれを完成に至らせるのは神です。
その完成を目指す人は、神の栄光を求めているので、人の賞賛にとらわれません。
その完成は、この地上においてではなく、完成した時、この世を立ち去る時です。
いくつかの聖句があります:
そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。 (ピリピ 1章6節)
そういうわけだから、わたしたちは、キリストの教の初歩をあとにして、完成を目ざして進もうではないか。(へブル6章1節)
信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。 (ヘブル12章2節)
主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。 (ヘブル12章6節)
わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。 それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。 そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。
(ローマ5章2-5節)