神に会う備え
時々、立ち止まること、現場から離れることは、普段見ていない、あるいは見えてないものを見る助けになります。しかし、せっかく現場から離れても、まだ心配事が思いを駆け巡っているなら、神様が示されたいことに目が開かれないということがよくあります。私たちはそれほども日常の環境が影響を与え、神よりは自分の周りのものに影響されて生きているということです。
なかなか立ち止まることができないと、神が立ち止まらせてくれますが、痛みを伴ってということがあります。
ついに神に向いた時、結局、人生において大切なことは、神を意識し、神の御前で自分がどんな生き方をしているのか、神によってこの世に送り出され、神のもとに帰っていこうとしている。私はこの生き方でいいのだろうか、神は私をどう見ておられるのか。人には自分の本音を隠しおおせるかもしれない。しかし心を見られる神の前では、すべてが露わ…
わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。 (第一テモテ 6章7節)
そして言った、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。 (ヨブ記 1章21節)
わたしは生れた時から、あなたにゆだねられました。母の胎を出てからこのかた、あなたはわたしの神でいらせられました。 (詩篇 22篇10節)
彼は母の胎から出てきたように、すなわち裸で出てきたように帰って行く。彼はその労苦によって得た何物をもその手に携え行くことができない。 (伝道の書 5章15節)
「わたしはエジプトにしたようにあなたがたのうちに疫病を送り、つるぎをもってあなたがたの若者を殺し…それでも、あなたがたはわたしに帰らなかった」と主は言われる。 「わたしはあなたがたのうちの町を神がソドムとゴモラを滅ぼされた時のように滅ぼした…それでも、あなたがたはわたしに帰らなかった」と主は言われる。 「それゆえイスラエルよ、わたしはこのようにあなたに行う。わたしはこれを行うゆえ、イスラエルよ、あなたの神に会う備えをせよ」。 (アモス書 4章10-12節)