大艱難期を迎えるにあたって

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2024年6月7日

ひとしずく844-大艱難期を迎えるにあたって
 地震、飢饉、人々の愛が冷える・・・マタイ24章やまた黙示録などを読むと、私たちが好きであろうと無かろうと、突入し なければならない数多くの試練が待ち受けているように思えます。その時はもう間近かもしれず、あるいはもう突入しているかのようにも思えます。<時期や詳細について学ばれたい方は、「サタンの反乱」「来たる艱難期」ロバート・D・ルギンビル博士著を参考にされることをお勧めします> 今、黙示録についていろいろな資料を調べているのですが、そうしていると、次第に気分が重くなってしまいます。そんな私 に妻はよく「パパ、賛美よ。こういう時だからこそ、賛美することが大切なのよ!」と発破をかけてくれます。確かに 妻の言う通りだと思います。信仰によって賛美をし続けることの大切さを私も強く信じています。何かがある度に、気持ちが引き下げられてい るなら、これから多くの非常事態が起こる時代にあって、賛美を止めることになってしまうでしょう。 主が「時のしるし」を預言によってはっきり私たちに知らせてくださっている理由の一つは、私たちに心の準備をさせるため です。そして、実はこのイエス様が言われた、「かつてなく 今後もないような大きな患難」期というのは、とても大切な時期なのだと思います(マタイ24:21)。私たちは、今までの経験から、主は全ての苦しみを、素晴らしい益をもたらす ために用いられるということを知っています。御言葉にも「苦しみに あったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」とあります(詩篇119:71)。 そしてそれらの苦難を通して、私たちは、主との強い結びつきを持つようになってきたのです。 主は苦しみの時に共にいて、その愛を示してくださいます。主が「悩みの時のいと近き助け」であられるのでしたら、来るべ き大患難期には、尚のこと、私たちのすぐそばにいて、主は私たちを励まし、慰め、助けてくださるのではないでしょうか? そして、その大患難期は、今までにないほどに、主と私たちを近く引き寄せてくれるのだと思います。試練や苦しみは、その ようにイエス様とのつながりを強めるために使われるのです。 

そして、これら未来に起こることを預言で知らせているもう一つの大きな理由は、私たちが患 難期にあっても希望と平安を持って生きられるようにです。黙示録は患難期の後には、主が支配する至福千年という素晴らしい時代が訪れるこ とを告げています。したがって艱難期には、もうすぐやってくる新しい時代に目を留めて、耐え忍ぶことができるのです。

私は今まで、真っ暗闇の中を歩いているかのように思えた時期が幾度かありましたが、その度 に、どれだけ預言の言葉が助けになったことかと思います。特にその中でも、「もう少ししたら良くなる」「じきに状況は改善される」「勝利 はすぐそこまで来ている」といった希望を与えてくれる言葉によって慰められたように 思います。それと同じように、黙示録に記されたそれらの預言も、私たちが希望をもって患難期を乗り越えられるようにとの、主の愛情深い配 慮から来ているのだと思います。

確かに、黙示録などを読むと、これからどんなことが起るのだろうかと、多少不安にさせられ る状況が記されています。しかしそこには、全てをご存知の神様の存在が明確に記されていますし、それらの時刻表を前もって作成し、私たち に手渡してくださるほど、現在も未来をも手の中に持っておられる方がいるということは励ましではないでしょうか?

 ある人がこう言っていました。「福音書は、イエス様が弱い赤ちゃんとして地上にやってこられ、に私たちの痛みと悲しみを 感じ取ってくださる方として描写され、人の手にかかって十字架で殺されたことを示しているが、黙示録は、イエス様の権威がどれだけ偉大な ものかを示すものである」私もそれに同意しますが、黙示録は単にイエス様の権威の偉大さを示すというだけのものではなく、艱難期という試 練の中にあっての主の優しさと慈しみ深さ、恵み深さ を知る時になるのではないかと思います。 泉は砂漠にあって感謝され、堅固な岩は嵐にあって頼られ、砦は戦闘の最中に身を守ってくれ、隠れ家は嵐の時の避け所とな りますが、イエス様はこの全てとそれ以上の存在です。

 私たちは終わりの時にあって、主がいかに私たちにとって、力ある保護者、供給者、また導き手となられるかを、今まで知り 得なかった方法で知ることになるのだと思います。 災害が起らないとか、平穏無事に物事が進むということはなくても、それらのいかなる最中にあっても、主は守ることがで き、導くことができる方であるという信仰を持つこと、それこそが大切だと思います。私たちは、さらに深い愛で主と結びつくようになるで しょうし、またクリスチャン同士もお互いに近くなることでしょう。 ローマの迫害下でも、またあらゆる困難な状況の中でも、クリスチャンは、さらに主に近くなり、互いの愛において成長する ことになりました。これから困難な時期を迎える私たちも、主は必ずそのように導いてくださることと信じています。

恐れることなく希望を持って、艱難期に臨もうではありませんか。
「とこしえにいます神はあなたのすみかであり、下には永遠の腕がある。」(申命記33:27a)「私は安らかに伏し、また眠ります。主よ、私を安らかにおらせて下さるのは、ただあなただけです」(詩篇4:8)

「私は常に主を私の前に置く。主が私の右にいますゆえ、 私は動かされることはない。このゆえに、私の心は楽しみ、私の魂は喜ぶ。私の身もまた希望の内に休む」(詩篇16:8)「主よ、私はあなたにより頼む。とこしえに私を混乱させないでください。あなたの義をもって私を助け、私を救い出してくだ さい。あなたの耳を傾けて、私をお救い下さい。私が絶えず頼みとする強いとりでとなって下さい。あなたは私を救うために戒しめを授けられ ました。あなたはわが岩、わが城だからです。わが神よ、悪しき者の手から私を救い、不義、残忍な人の支配から、私を救い出して下さい。」 (詩 篇71:1-4)

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