ひとしずく819-イエス様を受け入れるか否かの選択
バイブルクラスに参加していた一人が、イエス様に出会って救われる前と、救われた後では、色々な事に対する見方が違うと話していました。たとえば、クリスチャン作家の映画や小説は、救われる前は、大変退屈なものだったけれども、救われてからは同じものでも、全く違った意味深いものになったということでした。
私もその通りだと思いながら「イエス様を受け入れるか否かの選択」がもたらす大きな違いについて考えたのでした。
これは聖書や神観についても言えることだと思います。聖書で言っている、たとえば黙示録の内容は、愛情深いイエス様のことを知らない人が読めば、まさに裁きと怒りに満ちた恐ろしいものだと言う印象を持つことと思います。何と神様は残酷なのかと。
確かに、この救い主に対する信仰、自分の罪が神の子の犠牲によってあがなわれ、赦されているということを知らない人、信じていない人にとっては、これから訪れる災いの時代は、非常に恐ろしいものとなり得るでしょう。
しかし、イエス様の愛を知っている人にとっては、それらの恐ろしい出来事とは、神様が愛ゆえに自分たちに知らせてくれている予告であり、そんな恐ろしい状況の中でも、神様は自分たちを守って下さるという確信と平安を持つことができます。
そして、恐ろしい艱難期の最中にも、もうすぐ訪れる素晴らしい世界を、希望を抱いて待つこともできるのです。また、イエス様が再臨された時に、裁かれることがないことを知っている者は、何と幸いかと思います。
「わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである」(ヨハネ5:24)
「イエス様を受け入れるか否か」の選択は、このように私たちのものの見方の違いをもたらすわけですが、一方、この選択は、神様からの対応の違いももたらすのだと思います。神を信じない人に対する対応の仕方と、信じている者に対する対応の仕方は異なっています。このようなことを言うと神様は不公平な方のように思う人もいるかもしれませんが、神様は、やはりご自分の愛を受け入れている者たちを子どもとして扱っておられ、特別な者として見てくださっていると思います。パウロもこう言っています。
「すべての人の救主、特に信じる者たちの救主」と。(第一テモテ4:10)
イエス様は全ての人の救い主であられますが「特に信じる者たちの救い主」だと言うのです。
主は、全ての人に愛と救いを与えようとされますが、その愛を受けようとしない人、あるいは嫌う人に、強引に押し付けることはされません。神様は、真理に飢え渇き、それを探し求める者に対してその心を向けられますし、神様を求め続ける者に対して、その愛を注ぎ続けるのです。しかも、不平ではなく賛美を、苦い思いではなく感謝を捧げる者に対して、神様の祝福は一層注がれるのです。
神様が、私たちに求めていることとは、御自分のことを「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして」愛してほしいということです。
そして主は、愛しておられるゆえに、何とかして自分のもとに来ようとしない魂を探し出し、説得し、求愛しようとしておられるのです。また同時に、来ようとしない者に対して、警告を与えられます。何故なら、神によって造られた者は、神によってのみ完全な幸せに至るからで、そのことを教えようと、主は次のように警告してくださっているのだと思います。
「あなたは私によって創られた。そしてあなたの魂は私を愛し、私と一つになることによって初めて幸せになり平安を得ることになる。私からさまよい出て、他の神々を慕ってもそこにはあなたの魂の喜ぶものはないのだ。かえってそれらはあなたの魂をやせ衰えさせる。それらは偽物であり、あなたの魂を滅ぼしてしまう。そしてそうした生き方、またあなたの求めているものが私からのものではないために、災いが迫っている。真理に目を開きなさい・・・」と。
聖書の中で、イエス様が来るべき事柄について警告を与えておられるのは、私たち人間が悟って神に立ち返るためなのです。
しかし、それを信じ受け入れるか否かは本人次第であり、その選択を本人以外の誰も代わって行うことはできません。そして神様もそれを 強制されません。
しかし、やはり神様が言われていた通りに物事は起こるのです。
ある人は、時のしるしを見て、どうも聖書で語られている通りのようだと、しぶしぶ神様の言っておられるのを認める者もいるかもしれません。あるいは、災いが実際に起って初めて、驚き慌てて神様のもとにやって来る者もいるかもしれません。または最後までどんなことがあっても神様の存在すら認めようとしない人たちもいることだと思います。
これは、各自の選択によるものであり、 神様は各自にどんな選択をするかを任せておられるのです。そして神様はその選択に従って、それぞれの神様に対する心の態度の違いに応じて、その愛を現すのです。
神様の愛は、嘆願の形にもなり、また求愛の形にもなります。また警告の形にもなれば、報いの形にもなります。しかし、すべてが同じ神からの愛の表現であり、私たちの幸せを願っての表現なのです。そして神様の願いは、全ての人が救われることなのです。
私たちは、イエス様を受け入れるという選択をした者であり、神様の愛と御旨を知る者です。神様が御子を世に使わしてくださってその愛を明らかにされたように、私たちも励んで、この終わりの時に一人でも多くの人が、イエス様を受け入れる選択をし、主のもとに立ち返ることができるように、そのために祈り、また神様と共に働こうではありませんか。
「万物の終りが近づいている。だから、心を確かにし、身を慎んで、努めて祈りなさい。」(第一ペテロ4:7)