ひとしずく811 光を灯して
<ある夜遅く山道を運転していた時のこと:> …山道にさしかかった時には、もう真っ暗になっていました。他に通る車もなく、その道には全く街灯がありません。山のカーブ道が続き、ある所は片側が谷になっている所もあり、しかもガードレールもない部分もあるので、一歩間違えたら、それこそ命取りです。
この暗闇の危険な道で、唯一頼りになるのは車のヘッドライトです。その光が、道の中央線や路側帯のラインやガードレールを照らし出してくれ、行くべき道を導いてくれるのです。
これは、信仰の歩みに似ていると思います。
私たちを主は「世の光」と呼んで下さっています。光は闇を照らすためのものです。
車のヘッドライトをつけて初めて、蛍光塗料で塗られているそれらの標識が見え、それに沿って、暗い山道でも、崖から落ちたり、山にぶつかったりせずに走ることができるのです。しかし、こちらが光を灯さない限りは、導きの路側帯のラインも中央線のラインも、ガードレールも何も見えず、先に進むことはとても無理でしょう。
光は、闇の道を行く者にとっては命なのです。
私たちも時々、暗闇に置かれたような状況と心境の中で、どうしたらよいかわからず、立ちつくしてしまうことがあります。しかし、もしかしたらそれは私たちが「世の光」として、先ず主が示された一歩に従うという、光を灯すことをしていないからなのかもしれません。主は、人を赦すように、あるいは何かを与えるように、あるいは話しかけるように、思い煩わないように、疑うのではなく信頼するように、といった導きを与えておられるのかもしれません。しかし、その導きに従う(光を灯す)ことをせずに、ただ闇の中でさまよっているのです。そして「暗いから自分は何もできない」という絶望的な思いを持ってしまうのではないでしょうか?
ある人が、その素晴らしい生涯の善行を称えられた時、こう答えたそうです。
「それは神様が、私がこうした行いをするようにと、人生の道を備えてくださっていたのです。私はその道をただ通り過ぎているに過ぎないのです」
私たち一人一人にも、神様が備えてくださっている人生の道があります。
しかし、闇が暗くてその道を見い出せないというのなら、光を灯してください。そうするなら、道はあなたのすぐ目の前にあるのを見るでしょう。そして主が、その道をあなたと共に歩まれます。
今日、主が私たちのために備えて下さった道を、光の子として歩むのを助けてくださいますように。
「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。」(エペソ2:10)
「こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。また、不品行といろいろな汚れや貪欲などを、聖徒にふさわしく、あなたがたの間では、口にすることさえしてはならない。また、卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさい。これらは、よろしくない事である。それよりは、むしろ感謝をささげなさい・・・あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい―光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものであ―・・・光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。明らかにされたものは皆、光となるのである・・・」(エペソ5:1-4, 8,9,13,14)
(ひとしずく811より)