ひとしずく1526-神の作品
美術館に展示されていたT先生の作品を見て、わたしの友人が、T先生の作品は、それを見ていると神様の霊を感じると言っていまし た。ある作品は、その作者の意図とかその作者の癖、人柄を感じとれるものがありますが、その作者という存在を感じなくなり、その中から神様ご自身が自分に語りかけるほどのも のというのは、やはり偉大な作品なのだろうと思いました。
この時のことを考えていると、聖句の「わたしたちは神の作品…」(エペソ6:10)という言葉が心に浮かびました。
上述のように優れた作品はその作者の技巧や意図を感じさせる よりも、その作者を霊感し、とらえている神様の霊そのものを感じさせるもので あるなら、神 の作品である私たちを通して、神様の存在を感じさせることは、尚更神の望まれる ことであるだろうと思いました。
「わたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神 のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。」(第二コリント4:7)
私たちは、単なる土の器であると聖句にありますが、この土の器の中に尊い宝である神様の霊、イエス様が宿って下さっています。そして土の器の美しさ以上に、その中の宝が輝いていることが大切です。器は中身のためにあるのですから、器は中身を引き立て、中身がその目的をうまく果たすことができるようにと存在しているものです。
「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信 じる信仰によって、生きているのである。」(ガラテヤ2:20)
私たちも、私たちの内に宿るイエス様が私たちを通して自由に輝き、栄え、働くことができるように、自分を無にすることができると素晴らしいです。きっと主は、わたしたちを 日々、そのように造り変えておられるのでしょう。
「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられてい く。これは霊なる主の働きによるのである。」(第二コリント3:18)
「わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。」(第二コリ ント4:16)
主がそのように、土の器から造られた私たちに対して、深い憐れみを持たれ、忍耐をもって日々、新たに造りかえ、イエス様 のお姿に似たものにしようとしておられるなら、私たちも、お互い、神様が心血注がれて造り上げておられる神様の作品である相手に対して、 尊敬の念をもって接すべきであると思います。
自分は、イエス様の姿には遠い存在だし、かえって人々を躓かせたであろう自分の弱さや過ちに目が行きますが、主は始めら れた業を、赦しと忍耐、そして訓練をもって、為し遂げて下さると信じます。
「あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確 信している。」(ピリピ1:6)
主がわたしに忍耐をもって、成長を見届け世話して下さるように、主のそうした愛をもって他の人に接することができますよ うに。
神様の手の業であり、作品である人たちの肉の弱さや欠点、過ちに目を留めるのではなく、それぞれの素材から新しく作り上 げようとしている巨匠である神のご計画に目を留めることができますように。神様が「完成して」下さるのですから。
「他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は 立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。」(ローマ14:4)
「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのであ る。神は、 わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。」(エペソ2:10)
「こういうわけで、キリストもわたしたちを受けいれて下さったように、あなたがたも互に受けいれて、神の栄光をあらわす べきである。」(ローマ15:7)
「互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆる し合いなさい。」(エペソ4:32)