ひとしずく1521-「有る」という方がいれば十分

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2024年4月22日

ひとしずく1521-「有る」という方がいれば十分

この世では、人生の成功と幸福のためには、何としても肩書きや学歴が必要であると信じてい る人は少なくないようです。そして人々は、その肩書きや学歴を得るために、並々ならぬ努力と苦労とそれに伴う悩みを抱えねばならないので す。

 この世で生きていくの は大変なことだな、と思いながら、私はモーセのことを思い浮かべていました。モーセはエジプトの王になるべき人でしたが、その栄光の冠、 肩書きが神によって削ぎ落とされることによって、神様に使われた人ではなかったかと思います。

 モーセが持っていたものは、奴隷たちの命の犠牲によって支えら れていた国を治める権利と知恵でした。いわゆるこの世の頂点に立っていた人です。しかし、神が本当にモーセを用いるようになるためには、 そのエジプトから得た全てのものを捨てる事から始めなければなりませんでした。そのような搾取と抑圧に成り立っている王国の文化、学問、 権力は神様がモーセを用いるためには、邪魔なもので、モーセは神の霊によって再教育されなければならなかったのです。神は全く新しいこと をモーセのために用意しておられました。

 エジプトの王となる特権を捨てて、エジプトから逃げ出したモー セは、それから四十年の間、羊飼いをしていました。その時のモーセは、華やかさもなければ、何の肩書きも持たない、ただ家畜を相手にする だけの口下手な老人でした。この世的な力など、何一つありま せんでした。しかし、神はこのモーセを使われたのです。神はモーセをエジプト王のところに使わし、イスラエルの民をエジプトから解放する ようにとのメッ セージを 告げさせます。普通、王と謁見する人と言うのは、きちんとした肩書きがある人だと思いますが、神は、何の肩書きもない、八十歳にもなる老人モーセと、その 兄のアロンを使わしたのです。そして様々な奇跡を起こした後、ついに何百万ものイスラエルの民を率いて、約束の地を目指しエジプトを脱出 させました。神は ただの一老人に過ぎないモーセを素晴らしく使われたのです。

私たちは、肩書き、この世的な力や技能、頭脳や才能やセンスがなければ、何もできないとい う、この世的な考え方にしばしばくじけそうになります。確かにこの世に認められ、この世の求めることをしたいなら、それが必要なことはわ かります。しかし神が全てを失ったように思える人たち、以前の栄光から堕ちてしまったと思えるような人たちを拾い上げて新たに用いるケー スは数限りないように思えます。

自分には何もないと思えるなら、私たちが信じている無から有を造り出すことのできる方のこ とを思い出すべきだと思います。

神は小さな石ころからでもアブラハムの子を起こす(マタイ3:9)ことのできるお方であり、荒野に道を設け砂漠に川を流す(イザヤ43:19)方です。むし ろこの神に使われるためには、神は何も持たない人、持っていたものを削ぎ落とされた人を用いられるように思えます。そうでなければ、神が 大いなることをなさっても、人やたやすく人に誉れを与えて、この人の能力がそうしたとか、学歴、肩書きのゆえだと思い込んでしまうところ があるからです。それらがあると、神は用いられないというわけではありませんが、世の誉れを受けながら、謙遜でい続けることが人には容易 なことではありません。

神が共にいてくださること、他の言葉で言えば、私たちが神の御旨を行っていること、これこ そが大切なことであると思います。肩書きと権威を振り回し、神と人の心を痛ませることを行っているなら、最後の神様の前での全て自分の 行ってきたことを総決算の際には、悔いしか残らないことでしょう。

モーセは最後には、神しかいないというところに来ていました。神様がモーセに、エジプトの 国で奴隷となっているイスラエルの民を解放するために、エジプトの王に使わすと言われた時、モーセは同胞のイスラエルの民にさえ、何の権 威によって自分が行おうとしているのか、どの権威がエジプト王を説き伏せることができるのか?自分のことを何と説明したらいいのか?と疑 問に思いました。

モーセは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの 先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、 なんと答えましょうか」。

神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々に こう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。

神はまたモーセに言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい『あなたがたの先祖の神、 アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と。これは永遠にわたしの名、これ は世々のわたしの呼び名である。(出3:13-15)

御自分の名前を「わたしは有る」と言われたというのはとても興味深いではありませんか?全 知全能の方が、私は存在している、あなたがたのすぐそばにいて、あなたを見ており、生きていて守り、また裁く者であり、あなたがたを忘れ ていないと言われているのです。

神様が私たちと共におられると確信している時、何が他に必要でしょうか?もちろん神様は私 たちを御用のために天地を造られる前からご計画されているので、産まれた環境、育ち、経験、学び全てを通してご計画の下に私たちを主の御 旨のために備えてくださっていますので、それらが必要ではないことはないでしょう。しかし、最大の信頼を神に寄せている場合、神様は必要 とあれば、他の賜物を持っている人を使わして、私たちが神の召しを全うすることが出来るようにさえして下さいます。ちょうどモーセにアロ ンが送られたように。

モーセは主に言った、「ああ主よ、わたしは以前にも、またあなたが、しもべに語られてから 後も、言葉の人ではありません。わたしは口も重く、舌も重いのです」。主は彼に言われた、「だれが人に口を授けたのか。話せず、聞えず、 また、見え、見えなくする者はだれか。主なるわたしではないか。それゆえ行きなさい。わたしはあなたの口と共にあって、あなたの言うべき ことを教えるであろう」。モーセは言った、「ああ、主よ、どうか、ほかの適当な人をおつかわしください」。そこで、主はモーセにむかって 怒りを発して言われた、「あなたの兄弟レビびとアロンがいるではないか。わたしは彼が言葉にすぐれているのを知っている。見よ、彼はあな たに会おうとして出てきている。彼はあなたを見て心に喜ぶであろう。あなたは彼に語って言葉をその口に授けなさい。わたしはあなたの口と 共にあり、彼の口と共にあって、あなたがたのなすべきことを教え、彼はあなたに代って民に語るであろう。彼はあなたの口となり、あなたは 彼のために、神に代るであろう。あなたはそのつえを手に執り、それをもって、しるしを行いなさい」。(出エジプト4:10-17)

おわかりのように、モーセが「自分にはできない」と主張し続けるために、「主は怒りを発 し」たとあります。もしモーセが従っていたら、彼が口べたでも彼の口に主は言葉を授けられたことでしょう。しかし、このことで、主はモー セの訴えを聞かれ、アロンにモーセが自分にはないと思い込んでいるところを補わせました。

モーセはこの後、イスラエルの民に主が使わされたことを証しし、そしてエジプトの王のもと に行きました。エジプトの王は、モーセを使わした神の力を何度も示されたにもかかわらず、心を頑なにしましたが、神の力がモーセとイスラ エルの民と共にあり、「出エジプト」がなされたのです。

モーセがそのように神に用いられたのは、ただ神が共にいてくださったことによる以外に何も ありません。神が共にいてくださるなら、何でもできないことはないのです。

この信仰に固く立って、ただ主を誇る者となれますように。

「主はこう言われる、『知恵ある人 はその知恵を誇ってはならない。力ある人はその力を誇ってはならない。富める者はその富を誇ってはならない。誇る者はこれを誇とせよ。すなわち、さとく あって、わたしを知っていること、わたしが主であって、地に、いつくしみと公平と正義を行っている者であることを知ることがそれである。 わたしはこれらの 事を喜ぶと、主は言われる』。」(エレミヤ9:23―24)

「兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある 者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。それだのに神は、知者を はずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、こ の世で身分の低い 者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。あなた がたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられ たのである。それ は、『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりである。」(第一コリント1:26―31)

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