ひとしずく1514-選択という賜物

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2024年4月18日
ひとしずく1514-選択という賜物
 
あなたは神様の御心を知っていますか?神様の御心、それは、私たちがいつも神様の近くに住まい、神の御顔を仰ぎ、愛し、どんな状況にあっても神様の約束を固く信じ、賛美しつつ御言葉に従って生きることです。しかし、神様は、そんな御自分の思いを押しつけたりせず、私たちの自由意志を尊重し、選択と言う賜物を与えてくださっています。何と深い愛だろうと思います。その神の御姿は、放蕩息子の父親の姿で表されています。
 
「ある人に、ふたりのむすこがあった。ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物の
あり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。
 むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。
しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。」
(ルカ15:11-24)
 
このお話はイエス様が、「罪びとたちを招いて食事をしている」と、御自身を非難したパリサイ人たちに対して話されたたとえ話で、罪人が一人でも悔い改めるなら、神の御使たちの前で喜びがある、神はそれを望まれている、ということを説明するために話されたものです。
私は、この放蕩息子のたとえ話が大好きです。このたとえ話をイエス様がされたのは、まず何よりも、父親の態度に表されている神様の深い愛について、教えたかったのだろうと思います。
 父には二人の息子がいましたが、弟の方は父親の許を離れて、町に行き、自分の好きなように生きたいと思っていました。町で楽しいことをしたかったし、また一儲けしたいとも思っていたかもしれません。父親はそんな息子にとやかく言って説教することもなく、また無理やり縛りつけておこうとすることもせず、ただ息子の求めるように、身代を分けてやったのです。自分が何をしているのかわからずにいる息子の旅立つ後ろ姿を見送る父親の心境はどのようなものだったでしょう?それを考えると心が痛みます。父親は自分の意思も願いも、すべて心の隅に押しやり、息子を送り出したのです。これから息子が苦労する事は目に見えていました。できることなら、無理にでも引き止めて、ずっ
と自分の許に置き見守っていきたいと思っていたことでしょう。しかし、息子が本当に父親の愛に気づき、その豊かな恵みに感謝して生きるようになるために、父親は、あえて息子の思うようにさせ、息子が自ら気づき、戻ってくることを待つ事にしたのです。そして、来る日も来る日も、父親はこの放蕩息子が自分の許に戻ってくるのを待ちわびていたのです。
 
 何という深い愛でしょうか?これこそ、私たちに対する神の愛なのです。
神様は私たち一人一人に、選択の権限を与え、その選択と決断を非常に尊敬し見守ってくださっています。しかし、私たちは、神様に与えられたこの選択と自由を、ただ自分の好き勝手に、何でもできる特権のように考えてはならないと思います。私たちが自分の好きなように生きてハッピーでいるなら、神も幸せ、というのは、ちょっと違うと思うのです。
私たちが神に背を向け、この世の楽しみに満足したり、また自分の間違った選択ゆえに傷ついたり、苦しんだりするのをごらんになって、神様はどれほど心を痛めておられることかと思います。
 神様が私たちに、自由意志による選択を授けてくださっているのは、私たちがその神様の愛に気づき、自由意志を持って、神様を愛するようになるためです。そして神様の御心に生きるようになるためなのです。 
自分が与えられているもので、神様から頂いていないものは何一つなく、この命さえも、神様の愛なしには存在しないものです。私たちは、その神様からの恵みの中にいながら、それを無視して生きることはできません。
一人子を賜ったほどに、私たちを深く愛してくださっている神様の愛に立ち返り、その愛の内に生きる事ができますように。

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