ひとしずく768-赦しなさい
私たちがもし、人や物事をもっと
イエス様の目を通して見ることができるなら
些細な事に憤慨することはないだろう
イエス様の目は罪深さを見越す目
イエス様の目は隠された宝を探し出す目
「まず自分の目から梁を取りのけるがよい」
とイエス様が語られたことからして
私たちはかなり偏った見方をしている可能性がある
私たちは裁きやすい傾向があり
また裁いてしまう性質が根強いのだと思う
パウロはこう言った
「わたしたちは、互にさばき合うことをやめよう・・・」(ローマ14:13)
最終的に裁きを行う方は
私たちではなくイエス様である
「(神は)子(イエス)にさばきを行う権威をお与えになった。」(ヨハネ 5:27)
そして、忘れてはならない
全ての人は、その裁き主であるイエス様が
ご自分の血を流して贖ってくださったほどに
大切な魂だということを
なのに、人を裁く私は一体何者なのか?
「彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。」(1ヨハネ 2:2)
「他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。」(ローマ 14:4)
イエス様は
裁きを怖れて神様のもとに来ようとはしない人たちに
私は罪人を救うためにこの世にきたのだと、優しく手を差し伸べられている
「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(ルカ 5:32)
「神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、
この世が救われるためである。」(ヨハネ 3:17)
福音、すなわち、良き知らせとは
「あなたの罪は御子のあがないによって赦された」ということであると思う
イエス様は裁き主であるにも拘わらずこう言われた
「あなたがたは肉によって人をさばくが、わたしはだれもさばかない。」(ヨハネ 8:15)
だから私たちの態度もイエス様のように
「私は誰をも裁かない」という態度であるべきだと思う
「あなたは神に受け入れられています。あなたの罪は赦されました。
私もあなたを赦します。そしてあなたを受け入れます
あなたは神様にとても愛されていて大切な存在ですから」
誰に対してもそう言えるなら、どんなに心は平安であることだろう?
私を赦し、あがなってくださった主は
私にも「他の人を赦しなさい」と言っておられるのだから
(マタイ18:21-35参照)
「人をさばくな。自分がさばかれないためである。
あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。
そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。」(マタイ7:1-5)