ひとしずく760ー福音を述べ伝える パート3 (2012年)
みなさんのお祈りのお蔭で、先回のリトリートは、とても実りあるものになりました。最後のクラスは、私たちの使命についてでしたが、クラスが終わると、主の愛の証しとなる新たなるビジョンをもって、それぞれが使わされた場所へと帰って行きました。
その中には遠くから二日がかりでやってきて、参加した宣教師もいました。
彼は毎日のように路上に出て証しをしています。もう何年も、毎日同じ場所に立って、自分で作った福音メッセージのトラクトを持って、そこで出会う人に話しかけ、また話を聞いてほしい人の言葉に耳を傾けます。自分を全く空にして、聖霊が語るように導かれた言葉を伝えます。彼が毎日、何年も同じ場所に立っているのは、トラクトをもらった人が、神様について知りたい時、聖書について質問がある時、いつでも導かれた時に、彼の所に来られるように。時にはそうした人が、トラクトをもらってから二年後に初めて話しかけてくる時もあります。
彼は、その路上が彼の教会だと言いました。彼の教会には建物はありませんが、その町の一画が彼の奉仕の場、道を通り過ぎる人たちが彼の奉仕の対象の人たちです。
イエス様も地上を歩まれた時、その奉仕を制限する教会の建物も壁もありませんでした。そして、今イエス様は、世界中の全ての人のために取りなしの業を行ってくださっているのです。
「キリストは、ほんとうのものの模型にすぎない、手で造った聖所にはいらないで、上なる天にはいり、今やわたしたちのために神のみまえに出て下さったのである」(ヘブル9:24)。
彼は素晴らしい宣教師だと思います。誰とも比べ合うことなく、ただ主が自分に示されたことを、毎日忠実に行っているのです。私は彼の話を聞いて、とても励ましを受けました。
ところで、皆が彼のような奉仕に導かれているかというと、そうではないと思います。私たちはそれぞれに、主に召された場所というものがあるからです。
ある人にとっては、自分の家庭が奉仕の場であり、そこで、神様の栄光を顕わしている人たちがいます。病人の家族の世話を毎日し続けることによって、変わらない神様の愛を顕わすという奉仕です。そこが今、召されている場所なのです。またある人は、会社などの務めの場所に使わされています。そこに行かなかったら、またそこで日々同じ仕事に従事していなかったら、決して主の愛を伝えることができなかった人たちに、奉仕しているのです。そしてある人は、近所の公園に暇さえあれば行って、出会った人に親しく話しかけ、友達となってイエス様のことを伝えます・・・。
それが路上ですれ違う人たちであれ、また家族や近所の人たちであれ、また会社での仕事仲間であれ、自営の店に来るお客さんであれ、誰でも主にあって選ばれた者の使わされた所は、主の愛と救いの福音を伝える、奉仕の場所なのです。
主は、全ての人を愛しておられ、全ての人たちが救われるのを望んでおられます。
主はそのために私たちを選んで立てて下さいました。それは私たちが優れているからではなく、全ての人を救うというゴールのために、まず私たちをその奉仕に与らせるために選んでくださったのです。精一杯、主の任務に励もうではありませんか。
祈り:主よ、神の子であるあなたの子供たちは、使わされている場所も奉仕の形態もそれぞれ異なりますが、使命は同じです。あなたの愛の光を輝かすことです。どうか、使わされている一人一人をあなたが支え、強めてくださいますように。そして御霊によって私たちは皆、一つの霊でつながっています。互いのために祈り合い、サポートし合うことができますように。それによって神の子たち皆がそれぞれの場所で、主よ、あなたの務めを喜びをもって果たすことができますように。
「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。」(1テモテ 2:4)
「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ16:15)
「イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」(ヨハネ 20:21)
「からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。
すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。しかし、キリストから賜わる賜物のはかりに従って、わたしたちひとりびとりに、恵みが与えられている。」(エペソ4:4-7)