周辺地域にいる中心のキリスト

周辺地域にいる中心のキリスト (2013年2月 ひとし ずく1097)


 長い間、東南アジアの神学校で教鞭をとっていた小山晃佑氏は、「周辺地域にいる中心のキリスト」ということをその著書で述べています。
 聖書を読むとわかることですが、イエス様が生まれた場所も、また活動された場所も、そして死を遂げられた場所も、大きな町の中心地では なく 皆、その周辺の郊外や僻地でした。小山氏は、イエス様はいつも世間の人の目の中心から外れたところに、活動の拠点を持たれたと指摘していま す。

場所に限らず、神様は、社会的に見たら地位も名誉もない小さな人々を、その神様 の御 用のために用いられました。
 
 預言者サムエルが、イスラエルの次の王を選び油注ぎにやって来た時、その候補者として父親がサムエルの下に集めた息子たちの中に、ダビ デは いませんでした。神様が選ばれた次の王ダビデは、年も若く、丘で羊の番をしていたのです。
 主は、ダビデの口に賛美の言葉を下さいました。そして、小羊たちを野獣から守る力と勇気をダビデに与えられました。主は彼と共におられ たの です。主は、このダビデを選び油注ぎをさせるために、サムエルをわざわざ遣わしたのでした。
 しかし、最初サムエルは、エリアブを見て、「自分の前にいるこの人こそ、主が油をそそがれる人だ」と思いました(サムエル記上 16:6) しかし主はサムエルに「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔 かたちを見、 主は心を見る」(サムエル記上16:7)と言われ、エッサイの末息子であるダビデをサウルに代わる次の王として示されたのでした。


 人があきらめるような場所、人が捨てたもの、また期待もしないような人・・・。それが、神様の選ばれる場所や人たちなのです。


 「ナザレから何の良いものが出ようか・・・」ナタナエルは、フィリポが「モーセや預言たちが示してきた、救い主に出会った」と言って も、ガ リラヤ地方にあるまさかそんな小さな村から、救い主が現れるはずがないと決めつけていました。(ヨハネ1:46)

ナタナエルに限らず、普通王のような方は、権威ある者として、大きな有名な街の 高貴 な方のもとに生まれると、誰もが考えるのではないでしょうか?


しかし、神は私たちが考えるこの世の常識の、どんでん返しのような舞台を設定さ れて いたのです。

世界の中心たるイエス・キリスト、万物が彼から出て彼に帰する、このキリストの 誕生 地に、神はベツレヘムという片田舎を選ばれ、イエス様が育ち公生涯を始められるまで住まわれる場所にナザレというやはり片田舎を選ばれたので した。

そして救い主が、何の権力もない貧しい夫婦から生まれ、それも馬屋で生まれたの で す。

宣教をされ始めたイエス様はやはり、中心部のエルサレムの宮などで裕福な上流階 級の 人々を相手に活動されたのではなく、ほとんどが町の郊外や山や片田舎で、 貧しくしえたげられた人々と共にいて、神の御国について告げ知らせたり、癒しが必要な人々にその業を行われていたのでした。イエス様御自身も 住む所さえ持たずに、貧しくあられました。イエス様の弟子として選ばれたのは、律法学者ではなく、漁師のペテロやヨハネ、同胞から嫌われ てい た取税人マタイなどでし た。人々は、彼らがイエス様の使徒に選ばれ、世界を変える者になるとは夢にも思っていなかったことでしょう。

今、私たちがそれぞれに置かれている場所は、人の常識や見方からみたら、全く見 栄え もせず、みじめな所かもしれません。しかし、神様が使われる場所や人々を見るなら、私たちは今、素晴らしい神の御心の真っただ中に置かれてい る可能性が大いにあるのではないでしょうか?

主が共にいてくださるのであれば、主は私たちを通して、想像もできないほど素晴 らし い御業を行ってくださいます。希望を失っていた人々が、主を見出し、主とつながるという奇跡が起るのです。
 主が、人知れず隠された場所にあなたを導かれているなら、その時こそ、主が共にいて下さって、予期していなかったことをなして下さる時 なの です。


「なぜなら、大祭司によって罪のためにささげられるけものの血は、聖所のなかに携えて行かれるが、そのからだは、営所の外で焼かれてしま うか らである。だから、イエスもまた、ご自分の血で民をきよめるために、門の外で苦難を受けられたのである。
 したがって、わたしたちも、彼のはずかしめを身に負い、営所の外に出て、みもとに行こうではないか。」(ヘブル13:11-13)

いけにえにされた動物は罪を負い汚れたものとして「営所の外」で、焼かれなけれ ばな りませんでした。イエス様も全ての人の罪を背負われて、門外で苦難を受けられました。しかし、イエス様は死の内にとどまってはおられず、復活 され、中心の座につかれました。

同じように、私たちの通過する全ての隠された、小さな愛の行いは報われ、復活の 栄光 に与ることになります。

主は、今日も、周辺に召されたあなたと共に歩んで下さっています。

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